長野城 (ながのじょう)
最寄地 福岡県北九州市小倉南区長野896 2015.5.5
長野城 (ながのじょう)
最寄地 福岡県北九州市小倉南区長野896 2015.5.5
登城ルート
護念寺・城山
大手道・如意輪観音
虎口
本丸・千手観音
二の丸・千手観音
南側竪堀群
長野城 本丸跡(地図)
【遺構★★★☆☆ 比高70m】
【案内・感想】 長野氏の菩提寺である護念寺(表記番地)本堂左より登り道がある[マップコード16 259 100*68] 。
竹林の間の尾根(大手道)の横に1~17番の仏像が祀られ、虎口の先に比高約70mの二の丸跡があり18番千手観音像が安置されている。
西側に19番千手観音像の安置された所が、本丸跡である。本丸南斜面に百数十条の連続竪堀(畝状阻塞)がある(あまり明瞭ではない)。鉄塔の建てられている所が、出丸跡である。
【歴史】 保元二年(1157年)に豊前の国司として、この地に下向した平時盛の六男・修理判官康盛が長野氏を名乗り築城したと云われる。
南北朝時代以降、長野氏は当城を本拠として企救(きく)郡・田川郡・京都郡などを勢力下においた。
やがて長野氏は大内氏に属し、永禄元年(1558年)に毛利氏が門司城を落とすとその勢力下に入った。
毛利氏が九州から撤退した後の永禄八年(1565年)には大友氏が来攻し、長野氏を支配下に入れた。永禄十一年(1568年)毛利元就軍から総攻撃を受けた。
天正十五年(1587年)豊富秀吉の九州征伐の後、筑前国に小早川隆景が入り、長野氏はその家臣となって当地を去り、長野城は破却された。