浦戸城 (うらどじょう) (市の史跡)
所在地 高知県高知市浦戸城山830 2014.9.13
浦戸城 (うらどじょう) (市の史跡)
所在地 高知県高知市浦戸城山830 2014.9.13
本丸跡の坂本龍馬記念館
城跡碑
石垣
天守跡・山祇神社
浦戸城跡(地図)
【遺構★★☆☆☆】
【案内・感想】 浦戸湾を北に望む半島先端の丘陵にある。県道14号線浦戸大橋を渡り県道35号線を約600m行った県立坂本龍馬記念館(表記番地)駐車場が利用できる[マップコード858 278 238*85] 。
本丸跡には坂本龍馬記念館が建てられ、建物の南側に井戸、石垣の一部が保存されている。
また駐車場北に城跡碑・案内板があり、その横に石垣が残り、天守跡に山祇神社が祀られている。
平成六年(1994年)3月1日、高知市の史跡に指定された。
【歴史】 城跡のある浦戸山には、鎌倉時代から室町時代初期に城砦が存在していたとされる。
天文年間(1532~55年)土佐七雄の一つ本山氏がこの地まで勢力を伸ばし、最盛期を築いた本山茂宗(清茂)により築城された。
永禄三年(1560年)、長宗我部国親が長浜の戦いにおいて本山氏を破り、長浜城と共に本城を支配下に収めた。
戦国時代末期、岡豊城を主城としていた国親の子・元親は、天正十六年(1588八年)大高坂山(現在高知城のある山)に城を移したが水害が多く、三年後の天正十九年(1591年)、浦戸城をそれまでの海からの防衛を主とした山城であったものから、水陸両面の防衛を重視した本格的な城郭に改築し、居城とした。
本丸・二の丸・三の丸・出丸から構成され、五間四方三層の天守も備えられていた。
慶長四年(1599年)元親が死去し四男・盛親が家督を継いだ。
翌、慶長五年(1600年)関ヶ原の戦いで盛親は石田三成方(西軍)に付いたが敗北し、長宗我部氏は改易された。
同年、山内一豊が代わって土佐藩主となったが、一領具足と呼ばれる長宗我部旧臣の抵抗に遭い入国出来ない状態であった。
十月十九日、幕府の命を受けた井伊直政が家臣の鈴木平兵衛・松井武太夫を城の受けとりに赴かせたが、長宗我部氏の旧臣は「浦戸一揆」と呼ばれる五十日間に及ぶ頑強な抵抗を行った。
結局、策謀によって鎮圧され、城内の273名の遺臣は殺害された。翌年の慶長六年(1601年)一月になってようやく一豊が入城した。
しかし、この地では手狭であると感じ、同年八月より高知城建設に着手し、慶長八年(1603年)完成し、移ったため浦戸城は廃城となった。