城ノ腰山城 (じょうのこしやまじょう)
所在地 山口県萩市大字椿東 2021.4.15
城ノ腰山城 (じょうのこしやまじょう)
所在地 山口県萩市大字椿東 2021.4.15
登城ルート(緑線は車道)
奥萩本陣の門
鉄塔への道
鉄塔・奥が主郭
主郭
主郭北側の段
城ノ腰山城跡(地図)
【遺構★★★☆☆ 比高140m 】
【感想】 萩市を流れる松本川右岸の標高約144mの「城の腰山」に築かれている。南東には奥萩展望台のある吾妻山がある。
鉄塔建設で多少破壊され遺構は少ないが、主郭の南北両側に段郭が見られる。
【案内】 観光旅館「萩本陣」(萩市椿東前小畑1区4530)があり、門は閉鎖されており、左側の山裾を越えて再度舗装道に入った [マップコード588 305 339*81]。
展望台との分岐を右に行き、舗装道終点から未舗装の鉄塔への道があり、鉄塔背後に主郭と段郭が残っている。
【歴史】 鎌倉時代に長門国に守護が置かれ、元寇に備えて長門探題も置かれ、北浦の随所に城砦が築かれた。城ノ腰山城もその一つで、急な斜面の山頂には、北に面して同心円状に長さ44mに及ぶ二層の階段状の石塁の跡が残っており山頂には五輪塔もあった。
中世になって尼子氏が築城し、侍大将松倉伊賀守が城主であったと云われる。
貞治五年(1366年)大内弘世が石見国の守護となり、石見、長門の要害地として築城した。
天文二十年(1551年)大寧寺の変により大内氏の滅亡後は毛利氏の支配となり、家臣吉見正頼に与えられた。
天正年間の1580年前後、吉見氏は波多野頼武を城主に命じたが、江戸時代初め謀反の疑いで当主の吉見広長が誅殺され、吉見氏が没落した為廃城となった。
藩主毛利輝元は吉見氏の断絶を憂い、慶長十七年(1612年)上意によって吉見氏を再興させ、さらに寛永十四年(1637年)毛利秀就の時、毛利姓を賜わり、大野村などを加増されて毛利一門に加えられた。現地説明板『奥萩本陣の概要』より抜粋。