岸和田城 (きしわだじょう) (千亀利城)(ちぎりじょう)
所在地 大阪府岸和田市岸城町9‐1 2012.5.10 2022.3.17
岸和田城 (きしわだじょう) (千亀利城)(ちぎりじょう)
所在地 大阪府岸和田市岸城町9‐1 2012.5.10 2022.3.17
復興天守・石垣・堀
北西隅櫓・石垣 ・堀
二の丸・多聞櫓
本丸入口・多聞櫓門
多門櫓門
復興天守
岸和田城本丸跡(地図)
【遺構★★★★★】
【案内・感想】 岸和田市役所の東に有料駐車場がある[マップコード106 734 807*62]。
岸和田市役所の南の堀を挟んで二の丸公園(地図)に「心技館(武道場)」や多聞櫓があり、本丸周囲と二の丸を囲むように水 堀と石垣が残っている。
南東の本丸には、 「復興多聞櫓門」や「三重天守」(表記番地)が再建(昭和二十九年)されている。
内部は展示施設として利用されている。北西に「復興隅櫓・塀」がある。
堀の外南に二の曲輪があり、明治四年木造の「五風荘」の庭園、建物がある。
平成二十六年(2014年)10月6日、岸和田城庭園(八陣の庭)が国の名勝に指定された。
【歴史】 建武元年(1334年)前後に、楠木正成の甥・和田高家が現在の岸和田城跡から約500m東(野田町1丁目周辺)に岸和田古城を築城した。岸和田古城(岸の城)が、いつ現在の岸和田城に移ったのか明確でない。
天正十一年(1583年)豊臣秀吉は、岸和田城を中村一氏の配下とし、 紀州征伐の拠点として急ごしらえで再築城された。
天正十三年(1585年)小出秀政が城主となり、 慶長二年(1597年)五重天守を上げる本格的な構えとした。
元和五年(1619年)松平康重が入り総構えと城下が整備され、寛永十七年(1640年)九月高槻城より岡部宣勝が6万石で入り、城の東側に二重、西側に一重の外堀と寺町が増築されている。
新たに領主となった宣勝に対して領民が強訴や一揆を起こそうと企てたが、宣勝は武力は使わず、領民の代表者の意見や窮状をよく聞き、減税などを受け入れることで未然に一揆が起こることを防ぎ、善政を行った。
以後岡部長職の時、明治維新を迎えるまで岡部氏13代の居城であった。文政十年(1827年)に天守を焼失した。
以降再建されないまま、明治四年(1871年)に廃城とされ、まもなく破却された。