下瀬山城 (しもせやまじょう) (横田城)
所在地 島根県鹿足郡津和野町池村 2022.11.9
下瀬山城 (しもせやまじょう) (横田城)
所在地 島根県鹿足郡津和野町池村 2022.11.9
登城ルート(緑線は車道)
縄張り図
林道分岐
城跡南東の駐車場・説明板
主郭南の段
主郭・三角点
城跡標柱・説明板
東側の腰郭
主郭西側の堀切
2郭
下瀬山城跡(地図)
【遺構★★★☆☆ 比高260m(県道より)】
【感想】 津和野町池村にある316.8mの下瀬山に築かれている。主郭は東西約100mで細長く、東側に腰郭が残っており、整備され草木が少なく見通しが効く。
西側に堀切があり、小郭、2郭があるがこちらは鬱蒼としている。
【案内】 西側を通る県道124号線に「下瀬山城跡3.9km」の標識があり、その先に橋を渡って舗装林道始点があり[マップコード513 426 801*14](地図)、約1.3km行くと左に、林道支線入り口がある[マップコード513 427 204*61](地図)。入り口に「←下瀬山城跡」の標識が建てられている
そこから部分舗装された城跡への約2.5kmの道があり、中間に無線塔への分岐があるが、あとは一本道で終点に広い駐車場がある。所々落石や大枝が落ちており、片付けながら利用した。
昭和四十一年(1966年)8月1日、津和野町の史跡に指定された。
【歴史】 弘安五年(1282年)吉見頼行は蒙古再来を警戒した鎌倉幕府の命により石見国を防衛するため能登から石見に移り、この地を治めた。
頼行の嫡男頼直は、津和野に三本松城を築き本拠とし、弟下瀬頼右に下瀬山城を与えた。はじめ横田城と称したが、後に下瀬山城と改められ下瀬氏代々の居城となった。
天文二十年(1551年)陶晴賢が大内義隆を滅ぼし(大寧寺の変)、大内氏の実権を握ると、反陶方に立った吉見氏を攻めた。
下瀬山城も陶方についた益田氏に攻められたが、これを撃退した。
その後吉見氏は毛利氏の家臣となり重用されたが、慶長五年の関ヶ原の戦いで敗れ、毛利氏に従い萩へ移り、廃城となった。