富山城 (とみやまじょう) (万成城・大安寺城・矢坂城)
最寄地 岡山県岡山市北区大安寺東町27−34 2021.2.12
富山城 (とみやまじょう) (万成城・大安寺城・矢坂城)
最寄地 岡山県岡山市北区大安寺東町27−34 2021.2.12
登城ルート(緑線は車道)
貯水池左から登る
南の郭・三角点
土橋
主郭南側虎口
本丸・標識
主郭北東の石塁
富山城 本丸跡(地図)
【遺構★★★☆☆ 比高80m】
【感想】 岡山市北区矢坂東町と本町の境にある標高131.5mの矢坂山に築かれている。
南の三角点のある平坦地は本丸ではなく、北に土橋を通って100m程行ったところが本丸で、虎口や石塁が残り、看板や城址標柱が建てられている。
南に南出郭がある所を見ると、北出郭もあると思われるがこちらは分からなかった。
【案内】 法照寺(表記番地)の先で通行止めとなっており、手前に駐車できる[マップコード19 887 641*26]。
舗装道を北東へ380m程歩くと、配水地がありその西の階段を登る。そこから遊歩道を北西に登り、400m程行くと夫婦岩がありそこから矢坂山頂上が望める。
鉄塔を過ぎると左に南出郭があり、朽ちた標柱が建てられている。
遊歩道を北に行くと南の郭に着き、切岸の石垣や三角点があり、奇岩が目を引く。
さらに土橋を北に行くと、南北に細長い本丸があり、本丸跡の看板や標柱が建てられており、北東側に奇岩や石塁が残っている。
【歴史】 仁和元年(885年)に富山重興がここに築城したことに始まる。富山氏は矢坂山の頂上部を富山と称しここに居住して富山姓を名乗ったことに始まると言われる。
一方、鎌倉時代中期、承久の乱(1221年)で鎌倉幕府方につき軍功のあった松田盛朝は、備前国御野郡に所領を与えられた。
応仁元年(1467年)富山長頼は松田元隆の攻城を受けて自害し富山氏は滅亡した。松田元隆はこの城を改修し居城とした。
文明十五年(1483年)元隆の子・元成は居城を金川城に移し、元成の弟・親秀が城主となった。親秀の没後は松田氏の重臣・横井土佐守が居城した。
永禄十一年(1568)金川城は宇喜多直家に攻められ落城し城主・松田元賢は討ち取られた。本城の落城と同時に富山城も落城し、金川城に居て身動きが取れずに居た富山城主・松田元脩(元賢の弟)は金川城からの脱出に成功するものの、自らの居城は直家の手に落ちており、止む無く備中へと逃げ延びた。
富山城には宇喜多直家の弟・忠家が城主となり、西の丸・東出丸を築き城を拡張した。
慶長四年(1599年)宇喜多家中で内紛が起こると、忠家の子で城主となっていた詮家(後の坂崎直盛)は城を捨て大坂に出奔した。
慶長五年(1600年)関ヶ原の戦いで宇喜多氏は西軍主力として戦い敗れたため改易され、備前国には小早川秀秋が入封した。入封翌年の慶長六年(1601年)頃、富山城は廃城となったものと思われる。