轟城 (とどろきじょう)
所在地 愛媛県四国中央市金田町金川 2017.12.14
轟城 (とどろきじょう)
所在地 愛媛県四国中央市金田町金川 2017.12.14
登城ルート(赤は南郭/緑は二の丸)
二ノ丸本丸への登り口
二ノ丸北東部・石碑
二ノ丸・ 城趾碑
本丸残部にある城跡碑
南郭下・備中守石碑
南郭
轟城跡(地図)
【遺構★★☆☆☆ 比高60m】
【感想】 城跡を松山自動車道が貫通しており、消滅部分が多く2の丸部分と南郭部分が残っているが、南郭部分は公園となり改変されている。
当初登り口が判らず、やっと坂道を見つけ、自動車道の両側に分かれているので探すのに苦労させられた。
備中守家臣の看板で、戦死年が天正十年と記されているが誤記だと思う。
【案内】 国道192号線が松山自動車道に差し掛かる西の信号より左折した空き地に駐車させてもらった[マップコード207 551 425*52](地図)。
国道南側を歩いて、右に登る坂道がある。登ると二股になり自動車道の右側を登って階段を上がると、二の丸北東隅に出、城跡碑(裏面に由来文:昭和61年建之)が建てられている。
戻って二股を左へ自動車道左側に出て登る。階段を上り詰めた標高93.2mの最高所から西が本丸であるが、自動車道用地で消滅している。
南東に下ってゆくと、「大西備中守元武公」の碑と城址碑が建てられ更に行くと、南郭があり、大西備中守の石碑が建てられ、その上が広い公園となっている。
【歴史】 応永年間(1394~1428年)信藤正国により築城された。七世の孫周防守正親が享禄年間(1528~32年)民間に下野して廃城となる迄、7代100余年間信藤氏の居城であった。
その後、天正二年(1574年)大西備中守元武によって城が修築されその居城となった。その後、仏殿城主河上但馬守安勝と兵火を交え攻略したという。
天正五年(1577年)七月、松尾城主の真鍋大炊介通近が長宗我部氏に通じ、大西元武は長宗我部軍と戦ったが敗れ、自刃して果てた。