久留米城 (くるめじょう) (笹原城・篠山城・篠原城・久留目城・来目城・雨城)
所在地 福岡県久留米市篠山町444 2013.10.8
久留米城 (くるめじょう) (笹原城・篠山城・篠原城・久留目城・来目城・雨城)
所在地 福岡県久留米市篠山町444 2013.10.8
東御門石垣
月見櫓跡・東御門虎口
月見櫓跡
篠山神社
冠木門虎口石垣
南西側石垣・ 坤櫓跡・有馬記念館・太鼓櫓跡
久留米城 本丸跡(地図)
【遺構★★★★☆】
【案内・感想】 宝満川と筑後川が合流する河口近くの南岸に接する丘陵に立地する。
高石垣が残り、東に「蜜柑丸」があり一部駐車場になっている[マップコード37 556 878*13]。
東側は久留米大学グランドに接し、南に堀を挟んで二の丸・三の丸跡に㈱ブリジストン久留米工場がある。西には住宅が建ち筑後川に面している。
本丸跡に「大井戸」が2本、「艮櫓跡」、「月見櫓跡」「坤櫓」等の石垣が残り、「大乗院」・「篠山神社」・「有馬記念館」(表記番地)が建てられている。
土橋の北に「冠木門」の石垣が良好に保存されている。
【歴史】 永正年間(1504~21年)にこの地の土豪が篠原城と称し、砦を築いたのが始まりと言われる。
この時代は豊後国の大友宗麟(筑後守護でもあった)と肥前国の龍造寺隆信が争っており、双方の勢力が拮抗する場所で度々城主が入れ替わった。
天正十五年(1587年)豊臣秀吉が九州を平定すると、大友宗麟の娘婿である毛利秀包(ひでかね)(羽柴久留米侍従)が13万石で筑後久留米に封じられ、堀を掘削し石垣を積みなおすなど、織豊期城郭への大改築を行った。
秀包は慶長五年(1600年)関ヶ原の戦いで西軍についたため、戦後改易となり、代わって筑後国には田中吉政が32万5千石で封じられ柳川城を本城とし、久留米城は柳川城の支城とし、二男の吉信が入った。
元和六年(1620年)吉政の子、忠政は嗣子なく没し、筑後柳川藩田中氏は改易となった。
代わって元和七年(1621年)、福知山城主・有馬豊氏が21万石で封じられた(柳川には立花氏11万5千石)。
幕府の御墨付きを獲た豊氏は隣国筑前黒田家の助力も得、筑後の要の城に相応しく、大規模に城を拡張した(天守は上げられなかった)。
以後、明治維新まで久留米は西国の大藩である有馬氏の居城となった。
明治四年(1871年)廃藩置県により廃城となり、明治六年(1873年)廃城令によって廃城処分となり建造物は日田の町民が落札、大半の城の建造物は解体された。
明治十年(1877年)本丸御殿跡地に篠山神社が建造された。