三隅城 (みすみじょう) (高城)
最寄地 島根県浜田市三隅町三隅909 2018.5.8
三隅城 (みすみじょう) (高城)
最寄地 島根県浜田市三隅町三隅909 2018.5.8
登城ルート(緑線は車道)
駐車場・説明板
東の郭
主郭・城跡碑
西の郭・主郭の石積
帯郭
三隅城跡(地図)
【遺構★★★☆☆ 比高40m(駐車場より)】
【感想】 標高362mの高城山頂上に主郭を置き、東西に一段下がって郭がある。主郭西側に石積が残り、西の郭は細長く北側に帯郭、西端に無線塔が建てられている。
この3つの郭は樹木もなく眺望も素晴らしいが、その他は鬱蒼とした藪となり、行動範囲は限られた。
【案内】 南麓にある龍雲寺(表記番地)[マップコード277 687 147*60]を経由して高城山の北側まで舗装された車道があり、終点に駐車場がある[マップコード277 688 720*81]。駐車場に説明案内板が建てられている。
当日は龍雲寺先が通行止めとなっていたため、北側の浄雲寺東[マップコード277 718 133*20]からの林道を利用した。
古刹龍雲寺は6代三隅信兼による開山で、借景を使った庭園がある。
【歴史】 寛喜元年(1229年)益田氏の始祖兼高の次男兼信が三隅氏を名乗り、三隅氏初代となった。
弘安四年(1281年)鎌倉幕府は元軍の襲来を受け、西日本海沿岸一帯に砦を築かせた。三隅氏も高城山に築城を開始し、3代信盛・4代兼連(かねつら)により本城と十指に余る出城を完成、難攻不落を誇った。
当時、三隅氏は益田氏を凌ぐ勢力を持ち、三隅兼連は石見の守護職を務めた。
南北朝時代、三隅兼連は南朝方に与し、延元元年(1336年)北朝方に与した益田氏の益田城を攻めた。
暦応五年(興国三年/1342年)兼連は、周辺の諸城を落として攻め寄せた北朝方の上野頼兼の軍を迎え撃ち、遂にこれを退けた。
ついで観応元年(正平五年/1350年)足利尊氏の命を受けた高師泰(こうのもろやす)の2万3千の大軍が三隅城に攻め入るが、百余日にわたる城攻めでも遂に落とす事ができず、幕府の命で高師泰軍は引き上げた。この後兼連は上洛して、正平十年(1355年)三月足利尊氏と戦い、討死した。
その後南朝方の衰微もあって三隅氏の家運は傾き、やがて戦国時代となった。
元亀元年(1570年)城主三隅隆繁の時、尼子方に加担したため毛利の大軍に攻められ、遂に落城した。ここに初代兼信から340年間続いた石見の名門三隅氏は滅亡した。