十河城 (そごうじょう)
所在地 香川県高松市十川東町932 2014.5.16
十河城 (そごうじょう)
所在地 香川県高松市十川東町932 2014.5.16
称念寺の城跡標柱・山門
説明板
鷺池側境内
【遺構★★☆☆☆】
【案内・感想】 称念寺(表記番地)の門前に城跡標柱と説明板があり、境内一帯が本丸跡である[マップコード60 313 780*46](地図) 。
城郭は称念寺の本丸を中心とし、周囲に曲輪をめぐらせた約100m四方であり西に鷺池がある。
大手は南にあり、北に堀切(地図)で隔てられ土橋で結ばれた約50m四方の曲輪(地図:現在、十河歴史資料館等の敷地)があった。
春日川上流より南側にいくつもの丘陵があり、十河城もその丘陵上に築城された。大正初期の整地で、城の遺構の大半が失われてしまい、大部分は、宅地、田畑となり城跡を思わせる遺構は今日ほとんど見ることはできない。
【歴史】 代々の城主であった十河氏は、讃岐国山田郡を支配していた植田氏の支族で、1362年(南朝:正平十七年、北朝:貞治元年)に細川清氏の陣に最初に馳せ参じた十河吉保が取り立てられ、この地の惣領となった。
これにより南北朝時代に十河氏によって築かれたと考えられている。8代目十河景滋は大永六年(1526年)、三好長慶と共に寒川元政の昼寝城・池内城攻略を計画するが事前に発覚し、寒川氏に急襲されて敗走した。
その後十河景滋の嫡子・金光が急死し、三好元長の子、三好長慶の末弟十河一存(そごうかずまさ)を養子に迎えた。
十河一存は「讃岐守鬼十河」と言われた勇猛な武将であったが、この時はまだ幼少であったため三好存保(まさやす)が十河城の城主となった。しかし、永禄四年(1561年)に十河一存が急死(享年30)した。
天正十年(1582年)八月十一日から同年冬頃に、第一次十河城の戦いが起こった。
長宗我部元親、香川親和連合軍は、兵をあげ讃岐国に侵攻してきた。香西佳清が立て篭もる藤尾城に攻め入ったが香川之景の仲介のもと、香川親和軍に降伏した。
十河存保は虎丸城に逃れ、羽柴秀吉に援軍を要請し、これに応えた羽柴秀吉は淡路国洲本城の城主仙谷秀久に救援を命じた。その後、膠着状態となり、3万5千の長宗我部軍は撤退した。
四国平定を急いだ元親は、十河軍に属していた寒川氏、由佐氏の調略に成功し、彼らを用いて雨滝城をはじめ十河城の支城を次々に落城させた。
そして翌天正十二年(1584年)六月十一日、元親は十河城をついに落城させ、守っていた城代十河存之(十河一存の庶子)は秀吉を頼って大阪へ落ち延びた。
第二次十河城の戦いは終結した。しかしその前日六月十日夜に十河存保は城を抜け出して落ち延びていた。
十河城は長宗我部家の手に落ち、長宗我部親武が城主となったが、羽柴軍が讃岐国に侵攻すると、天正十三年(1585年)には撤退、讃岐国には仙石秀久が領主となり十河存保は3万石を与えられ十河城を復権された。
しかし翌天正十四年(1586年)九州征伐に従軍し、島津氏との豊後国・戸次川の戦いにて存之ともども討死すると、十河城も廃城となった。