八木城 (やぎじょう) (国の史跡)
最寄地 兵庫県養父市八鹿町八木1132 2015.5.17
八木城 (やぎじょう) (国の史跡)
最寄地 兵庫県養父市八鹿町八木1132 2015.5.17
登城ルート
登り口
三の丸
二の丸
本丸西側高石垣
本丸・石塁
仏像・祠・天守台
八木城 本丸跡(地図)
【遺構★★★★☆ 比高200m】
【案内・感想】 駐車場は付近に無く、国道9号線の1本南の市道にある「下八木公民館」に用意されている[マップコード532 476 704*35](地図)。
下八木公民館駐車場より徒歩300m、国道9号を越え北に行き奥山産業(株)(表記番地)の西側より登山道がある。
墓地の横を通り入口(地図)に獣除けフエンス(開けて閉める)がある。比高200m(標高330m)の「城山・八木城」城跡に約900mの遊歩道が造られている。400mほど行くと竹林となり竹落ち葉が美しい。
城跡入口に秋葉さんと呼ばれ親しまれている不動明王が岩穴に安置され、二の丸と三の丸の間の大手虎口に至る。
本丸曲輪の東を除く三方に石垣が残り、本丸に石塁、土塁が残り、祠・仏像の北に石垣の一部残る天守台がある。
南東に二段になった二の丸、空堀を挟んで三段の三の丸の曲輪が並ぶ。また南尾根に五段の小曲輪、北に三段の小曲輪が配置されている。南北朝時代(1333~92年)が始まりといわれ、文禄年間(1592~96年)に構築された穴太(あのう)流の石垣のある城跡は東西340m、南北260mに広がる。
平成九年(1997年)3月6日、国の史跡に指定された。
また八木城跡の北西、尾根伝いに約450m離れた標高409mの土城山頂に「土城跡」がある。
【歴史】 伝承によると康平六年(1063年)閉伊頼国が前九年の役で功労があり、源頼家から但馬国を与えられ、八木の地に築城したのが始まりと言われている。
しかし『日本城郭大系』によると「確かな史料はない」とし不明としている。その後、建久五年(1194年)に朝倉高清が源頼家から但馬国を与えられ朝倉城を築城し、朝倉氏と閉伊氏の間で何度か合戦があり、朝倉氏は閉伊氏に勝利し、朝倉高清の第二子、重清を八木城の城主とし、八木の姓を名乗り八木重清となった。
以後八木氏は15代、300年以上にわたりこの地で栄えた。第6代城主八木重家は但馬国守護山名時氏、時義の重臣となり太田垣氏、垣屋氏、田結庄氏と共に山名四天王に数えられた。
但馬国に、織田信長の命に従い羽柴秀吉を総大将に天正五年(1577年)と天正八年の二度に渡って侵攻してきた。八木豊信は毛利方から織田方に寝返り羽柴秀吉軍の軍門に降ったと思われている。
その後、羽柴秀吉に従って八木豊信は因幡攻めに参戦し、天正八年(1580年)五月二十一日鳥取城攻城の拠点として八木豊信は若桜鬼ヶ城に入り守備していた。
しかし、天正九年(1581年)三月十八日鳥取城に吉川経家が入城すると、吉川元春は活気づき巻き返し、若桜鬼ヶ城を攻城し、八木豊信は支えきれず但馬国へ退却し、その後行方不明となってしまった。
天正十三年(1585年)、八木城の城主となったのは別所重宗で、1万5千石で登用された。別所重宗とは三木合戦で亡くなった別所長治の叔父に当たり、東条城を本城とし、屋口城を支城としていた。別所重宗が入城するとただちに城の改修を行った。
慶長五年(1600年)の関ヶ原の戦いで別所吉治が西軍に属したため、改易となり、城も廃城となった。