須々万沼城 (すすまぬまじょう)
所在地 山口県周南市須々万奥957-5 2018.12.8
須々万沼城 (すすまぬまじょう)
所在地 山口県周南市須々万奥957-5 2018.12.8
説明板
保福寺
周南温泉駐車場・土塁
ケアハウス周南温泉
沼城址碑・城主の墓
山崎伊豆守自刃地の碑
須々万沼城跡(地図)
【遺構★★☆☆☆】
【感想】 ケアハウス周南温泉や民家敷地となっており、駐車場横に土塁と思える遺構が見られる。
周囲は沼地であったと云われ、その中の独立した台地に城跡の雰囲気が感じられるものの、他に遺構は残っていない。
【案内】 国道315線より市道を行った、ケアハウス周南温泉(表記番地)の駐車場が利用できる。
南麓にある保福寺[マップコード107 734 395*65]の山門横に説明板が建てられ、東側坂道より保福寺裏手に回ると、仏像の並ぶ歩道脇に沼城址の石碑と城主の墓が建てられている
北麓の通玄庵(現在空地)に山崎伊豆守興盛自刃の地がある[マップコード107 734 634*58](地図)。
【歴史】 須々万沼城は室町時代に築かれたとされるが、築城者は不明。
天文二十四年(1555年)厳島の戦いで陶晴賢を破った毛利元就は、防長2国の制圧に取りかかった。
弘治二年(1556年)四月十九日、元就の嫡子隆元は、兵50騎を率いて岩国を出発、翌日須々万沼城攻撃を開始した。一方大内氏の家臣・山崎興盛、江良賢宣らが籠城して、攻め寄せる毛利軍に対峙した。しかし、この時は大内勢の兵は毛利方の予想をはるかに上回り、隆元は退却を余儀なくされた。
その後、九月二十二日隆元は大軍を率いて須々万沼城に押し寄せたが、沼に悩まされ進めず、前面衝突には至らなかった。
弘治三年(1557年)二月二十九日、元就自ら総大将となり1万余の大軍で総攻撃に取りかかった。
大内方は、小辻川を堰き止めて防備を強化して必死に抵抗したが、毛利軍は編み竹に筵を乗せ、沼を渡り、火縄銃で城内に射撃をして、城兵の戦意を喪失させていった。江良弾正忠賢宣は城を出て降参し、城将山崎興盛・隆次親子は自害した(三月三日)。
この戦いで、城内に籠った一般人の老若男女1500人(3000人とする説もある)も斬殺されたと云われている。城は落城後に廃城となったと思われる。この戦いは弘治元年(1555年)十一月九日の鞍掛合戦に続く大きな戦いとなった。