鍋城 (なべじょう) (鍋倉城)
最寄地 熊本県球磨郡多良木町黒肥地8029 2014.5.11
鍋城 (なべじょう) (鍋倉城)
最寄地 熊本県球磨郡多良木町黒肥地8029 2014.5.11
登城ルート
城址標柱・南側登り口
大手石垣
堀道
本丸曲輪・土塁
本丸・空堀
北の入口(右へ)
鍋城 本丸跡(地図)
【遺構★★★☆☆】
【案内・感想】 国道219号線「多良木町口の坪」交差点より左折北に1.1㎞行き「町立黒肥地小学校」(多良木町黒肥地1629)北西の交差点に着く。
そこより県道33号線を約100m西へ行き、T字路を右折北へ1.5㎞行き、小椎川を渡った先に「鍋城址」の標柱のある登り口がある[マップコード 333 397 544*86 ](地図)。
斜めに登ってゆくと間もなく、大手石垣が残っており、廃屋がある竹林の悪路をゆくと標高222m比高約50mの独立丘陵にある曲輪群に着く。
土塁や空堀が残っている。かつて長さ43m、底幅5.5mの堀切があり、北側が本丸と南の二の丸の二区画に分かれている。
別ルートとして町道を500mほど北上した石垣のある民家(表記番地)から付近から南に折れて細い道(地図)を200mほど登ると本丸南に着く。
標識や説明板は見当たらない。西に栖山川が流れている。
【歴史】 相良頼景の時代に、伊豆で兵を挙げた源頼朝に協力せず、その後も不遜な振る舞いを続けたため、鎌倉幕府が成立すると、頼景は多良木荘に追放された。
その後頼景は、頼朝に許され多良木荘の地頭に任命された。さらに、頼景の長男・長頼も二俣川の合戦で手柄を立て、人吉荘を与えられた。
多良木荘の相良氏は上相良氏、人吉荘の相良氏は下相良氏と呼ばれる。 鍋城は上球磨の要地にあり、古くから上相良氏(多良木氏)の本拠地だった。
文安五年(1448年)に多良木頼観・頼仙が永留(相良)長続(ながつぐ)に雀ケ森で討ち取られると、上相良氏は滅亡した。これにより相良氏宗家は長続が継ぎ、多良木氏の旧領は子の相良頼泰に与えられた。
長亨元年(1487年)に陰謀が発覚して頼泰が殺されると、多良木城や鍋城は宗家の相良為続の支配下に戻った。
天文十四年(1545年)には、頼泰の孫で八代岡の地頭・相良治頼を推戴して人吉衆が反乱を起そうとしたが、計画が漏れて治頼は鍋城に拠ろうとした。しかし城代の税所源兵衛尉が入城を拒み、治頼は耳取原で戦って敗れた。
永禄二年(1559年)の獺野原(うそのばる)の戦いでは東長兄ら人吉勢が当城を本拠とし、湯前城の丸目頼美らに対峙し、頼実は敗れ日向に逃れ伊藤義佑に仕えた。
しかし元亀三年(1572年)に起こった伊藤氏と島津氏の「木崎原の戦い」で戦死した。廃城の年は不明である。