島原城 (しまばらじょう) (森岳城・高来城) (日本100名城91)
所在地 長崎県島原市城内1 2011.10.4 2019.12.10
島原城 (しまばらじょう) (森岳城・高来城) (日本100名城91)
所在地 長崎県島原市城内1 2011.10.4 2019.12.10
堀・石垣・巽櫓
南西入口・西櫓
復興五重天守
巽櫓
丑寅櫓
本丸二の丸間の堀・石垣
二の丸
二の丸・三の丸間の堀・石垣
島原城 本丸跡(地図)
【遺構★★★★★】
【案内・感想】 有明海に臨み、雲仙岳の東麓にあり、城郭は長方形の堀、石垣に囲まれた連郭式平城で、二の丸と廊下橋形式の木橋一本で繋がれていた。
現在は本丸に5重5階天守(昭和三九年・RC造)が建てられ巽櫓(地図)・丑寅櫓(地図)・西櫓(地図)・長塀が復元され、城跡公園となっており、本丸に駐車場が用意されている。
復興天守内はキリシタン資料等の歴史資料館となっている。天守の東には「天草四郎」像はじめ、長崎平和記念像の作者で地元出身の「北村西望」の彫刻が置かれ、記念館(巽櫓内)がある。
西櫓(昭和35年)や巽櫓(昭和47年)、丑寅櫓(民具資料館)・長塀(昭和55年)が復元されている。
北側は二の丸(地図)で「島原文化会館」の敷地となっており、本丸との間に石垣・堀が残る。
三の丸は二の丸と堀で隔てられ、第一小学校などの敷地となっている。島原市の史跡になっている。
平成十八年(2006年)4月6日、日本100名城(91番)に選定された。
【歴史】 元和二年(1616年)有馬直純が日向国延岡藩(延岡城)に転封になり、代わって、大和国二見城より松倉重政が有馬氏の居城であった日野江城に入城した。
元和四年(1618年)日野江城は手狭であったので島原城の築城を開始した。火山灰や溶岩流でなる地盤での普請工事は困難であったとされ、関わった領民の一揆を引き起こす一因となった。
寛永元年(1624年)島原城が完成した。天守は4階5階の独立式層搭型であった。
寛永十四~十五年(1637~38年)初代松倉重政、二代勝家の圧政により島原の乱が起きた。
勝家は領内を騒乱に導いた責により斬首され、松倉氏は改易となった。
寛永十五年、高力忠房が四万石で入封。以後、譜代大名四家が入れ替わり、明治維新を迎えた。
明治四年(1871年)廃藩置県により、島原県となり、この時の藩主は松平(深溝)家であった。
明治七年(1874年)廃城令により、廃城処分となり土地建物などが民間に払い下げとなった。
明治九年、天守以下建造物が破却され、本丸は畑地となり、北の三の丸には島原中学校(現・島原高等学校)など学校が建ち並んだ。