岩倉城 (いわくらじょう) (小鴨城)
最寄地 鳥取県倉吉市岩倉236 2019.10.24
岩倉城 (いわくらじょう) (小鴨城)
最寄地 鳥取県倉吉市岩倉236 2019.10.24
登城ルート
登り口
150m手前の堀切(右側)
2の丸
本丸手前の段郭
本丸
岩倉城跡(地図)
【遺構★★★☆☆ 比高140m】
【感想】 岩倉川右岸の標高246.9mの岩倉山山頂に築かれている。山頂の本丸は南北に細長く広い。
北に段郭、広く2段になった2の丸があり、西側下段に井戸郭が見られる。
また北の段の150m程手前に土橋・堀切がよく残っている。
【案内】 県道309号線に面した永昌寺(表記番地)に岩倉城跡から出土したという十三重塔や石宝塔が保存されている。永昌寺前に説明板が建てられている。
県道を南に行き橋を渡って東に行った林道横に登り口があり標識が建てられている。その向いの少し広い路肩に駐車できる[マップコード189 502 122*26](地図)。
そこから径ははっきりしており、600m程行くと城跡北東に着く。途中の150mほど手前に土橋と堀切が残っている。
段郭、広い2段になった2の丸があり、簡単な案内図が建てられている。西側下段に井戸郭があり、南西に段郭、本丸がある。
本丸は南北に細長く南側が広くなっている。
【歴史】 小鴨(おかも)氏は、奈良・平安時代にすでに名があり、伯耆国庁に勤めた在庁官人の家柄と考えられている。
平安時代末期の寿永元年(1182年)小鴨基保が西伯耆の豪族紀成盛と戦った記録がある。
鎌倉時代に小鴨氏は岩倉城を築き、代々の居城とした。
元弘三年(1333年)後醍醐天皇が船上山に潜幸の際、名和氏の軍勢により小鴨城が攻略されたという記事がある。
応仁の乱(1467~77年)には、伯耆守護・山名教之に従い、子鴨安芸守之基は主人に代わって防戦し、船岡山の戦いで討死した。
大永四年(1524年)五月、尼子経久が出雲より伯耆へ侵攻し、伯耆の諸城と共に小鴨氏の岩倉城も落城した。
永禄四年(1561年)毛利氏が勢力を伸ばすと、羽衣石城の南条氏と共に毛利氏に与し、尼子氏に反攻した。
永禄九年(1566年)尼子氏は毛利氏に降伏し、小鴨氏は南条氏と共に吉川元春の配下となった。
元亀元年(1570年)山中鹿之助の配下に一時奪われたが、因幡の湯原氏の応援を得て奪還した。
天正七年(1579年)小鴨元清は南条元続と共に、毛利氏から離れ織田氏に帰属した。
天正十年(1582年)五月、毛利氏は吉川元長を大将として圧倒的な軍勢で岩倉城を攻めた。忠勇十二勇士の奮戦も及ばず、遂に落城、城主・小鴨元清は南条氏を頼って羽衣石に逃れた。ここに岩倉城の歴史は幕を閉じた。