烏帽子形城 (えぼしがたじょう) (国の史跡)(楠木七城)
所在地 大阪府河内長野市喜多町 2022.3.16
烏帽子形城 (えぼしがたじょう) (国の史跡)(楠木七城)
所在地 大阪府河内長野市喜多町 2022.3.16
配置図
入口の城跡碑
南側の横堀
北東側の空堀・土塁
下段の2郭
上段の主郭・建物礎石
主郭西側横堀
烏帽子形城跡(地図)
【遺構★★★★☆】
【感想】 烏帽子形公園の一部として原形を傷めないように整備されており、要所に道標が設けられている。横堀など樹木は少なく明瞭で、殊に北東側の多重の空堀、土塁は圧巻である。
【案内】 河内長野市喜多町の烏帽子形公園となり駐車場が用意されている[マップコード10 382 749*08]。
南北に細長い山頂に主郭があり、西側に横堀、東側下段に2郭、更に東に土塁と空堀を組み合わせた地形となっている。南側に屈曲した空堀があり、西側尾根に2条の堀切が残っている。
平成24年(2012年)1月24日、国の史跡に指定された。
【歴史】 元弘二年 / 正慶元年(1332年)、楠木正成が上赤坂城の支城として築城の伝承があり、南北朝時代に主に南朝の楠木氏の城として北朝の畠山氏との争奪戦が行われたと伝えられる。
『橘氏楠氏系図』『甲斐庄楠木系図』によると天文年間(1532~55年)には楠木正季の子孫・甲斐庄隆成が城主であったが、畠山定国によって落とされ、元亀年間(1570~73年)には甲斐庄正治(橘長治)が城主であったといわれる。
烏帽子形城は岸和田城主である中村一氏の支城となり、天正12年(1584年)には豊臣秀吉の命により紀州攻めの拠点として改築なども行われ、翌年に紀州が平定された。その後の当城は、特に使用されることなく放置された。