東福寺城 (とうふくじじょう)
所在地 鹿児島県鹿児島市清水町32 2015.5.8
東福寺城 (とうふくじじょう)
所在地 鹿児島県鹿児島市清水町32 2015.5.8
下段の郭
中段の郭
東福寺城跡碑
上段の郭
切通し
肝付兼重卿奮戦之趾碑
東郷平八郎立像
東福寺城 上段の郭跡(地図)
【遺構★★★★☆】
【案内・感想】 錦江湾を望む多賀山公園(表記番地)となり、公園駐車場が用意されている[マップコード42 068 381*65] (地図)。
東郷平八郎立像の場所より100mほど北東に行くと、石垣の郭が3段になって残っている。上段に「島津氏居城東福寺城跡碑」(大正12年)の石碑があり、石段が残っている。
「桜花園橋」の架かる切通があり、興国元年(1340年)南朝方として長谷場氏と共に北朝方島津氏と戦った肝付氏7代「肝付兼重卿奮戦之趾」の石碑が建てられている。
南の東郷元帥の墓付近から北の鳥越トンネルの上までの台地が東福寺城の跡とされる。海側は絶壁で、西側の日豊本線側も急斜面となり、天然の要害となっている。
【歴史】 天喜四年(1053年)藤原純友から4代目にあたる長谷場永純によって築城された。
3州(日向・薩摩・大隅)としては初めての城とされている。南北朝時代(1336~92年)にはこの城を巡って激しい戦いが行われた。
鹿児島を本拠としていた長谷場、矢上、中村、上山、谷山の各氏は南朝軍に加わり、出水の山門院から鹿児島入りした島津氏は北朝軍に属した。
両者は激戦を続けたが、島津氏は暦応四年(1341年)東福寺城にこもる鹿児島郡司矢上氏一族を攻め落とし、鹿児島を治める根拠地とした。
貞久とその子6代氏久はおよそ40年間にわたって東福寺城を根城にして大隅地方にまで勢力を伸ばした。
更に勢力を伸ばした島津氏は、嘉慶元年(1387年)7代島津元久の時に清水城に移った。