秋月城 (あきづきじょう) (杉本城)
所在地 福岡県朝倉市秋月野鳥663 2013.10.8
秋月城 (あきづきじょう) (杉本城)
所在地 福岡県朝倉市秋月野鳥663 2013.10.8
隅櫓石垣
堀・瓦坂
長屋門
秋月中学校
黒門
秋月城 本丸跡(地図)
【遺構★★★★☆】
【案内・感想】 国道322号線より南に橋を渡って「朝倉市秋月郷土館」の前の細い道を400mほど南に行く。城跡は堀と石垣が残り、曲輪の北は秋月中学校の敷地となっている。
堀に「瓦坂」という土橋が残り大手門へ続く。中学校の南に一段高い曲輪があり、土橋石段の上に裏門であった「長屋門」(表記番地)、「垂裕神社」の神門として移築された旧大手門「黒門」があり、東の本丸跡に「日清日露戦役忠魂碑」や「慰霊塔」が建てられている。
明治六年(1873年)廃城令により、廃城となり、払い下げられた後、本丸跡地には黒田長興を祀った垂裕神社が建てられている。
町は城下町の雰囲気が残り、西300mには武家屋敷「久野邸」(朝倉市秋月83)が保存されている。
【歴史】 建仁三年(1203年)、秋月種雄が古処山城の居館として 秋月城を築城した。
弘治三年(1557年)、秋月文種や長男の秋月晴種が大友宗麟の猛攻を受けて自害したが、次男の秋月種実は家臣に連れられて古処山城落城寸前に脱出し、毛利氏を頼って周防山口に落ち延びた。
秋月氏十六代当主種実(たねざね)の時代、大友宗麟に何度か攻められるも、毛利元就の援軍を得て撃退し、秋月氏は筑前・豊前・筑後北部を領し36万石の最盛期を迎え、島津義久と手を結び大友氏と対抗した。
しかし天正十五年(1587年)豊臣秀吉の九州征伐(島津攻め)において敗れ、秋月種実は日向国高鍋(高鍋城)三万石に移封された。これにより、秋月城は廃城となった。
寛永元年(1624年)、福岡藩主・黒田長政の三男、黒田長興が福岡藩二代忠之より夜須・下座・嘉麻の5万石を分封され、長興は、九州征伐以降廃城となっていた秋月城を大幅に改修し、陣屋を置いた。
以後、黒田氏12代が明治まで治めた。
明治六年(1873年)の廃城令によって廃城となり一部を残して撤去された。