小林城 (こばやしじょう) (三ツ山城)
最寄地 宮崎県小林市真方803‐5 2014.9.9
小林城 (こばやしじょう) (三ツ山城)
最寄地 宮崎県小林市真方803‐5 2014.9.9
登城ルート
国道からの入口
登り口の説明板
大手門跡
虎口
井戸跡
本丸跡
小林城 本丸跡(地図)
【遺構★★★☆☆ 比高40m】
【案内・感想】 三方が急崖となった標高223m比高約40mの独立丘陵にあり、「城山公園」となり指標、本丸跡などの標柱等はあるが、ほとんど雑木林になっている。
須木地区につながる国道265号線「大手橋」交差点より東に約100m行くと高台に駐車場がある[マップコード227 583 759*37](地図)。
北の細い道を登ると城跡である。左に行くと北に空堀跡、大手門跡がある。時計方向に帯曲輪を登ると二の丸跡、本丸跡があり、本丸に土塁、井戸跡が残る。
当初は三ツ山城、もしくは三ノ山城と呼ばれていたが、島津氏の城となった時島津義弘により、人心一新のためと、北原氏が所有していたもう一つの三ツ山城(小林市細野)との混同を避ける意味で、小林村にあったことから小林城と名を改められた。
【歴史】 小林城の築城が開始されてから約半年後の永禄九年(1566年)十月二十六日(永禄十年十月二十五日という説もあり)に、島津義久・義久・歳久が城の完成前に二万余の兵にて攻めてきた。
義久は大手口、義弘は水ノ手口、歳久は窪谷口のある南方から攻めた。伊藤氏は菱刈氏よりこの情報を得たが、その菱刈からの使者が帰途に就く前に攻めこまれた。
島津軍に対し伊東軍の有志は打って出るが敗退、籠城戦へ移って行った。 結果、大激戦となり、城の内堀と外堀が死体で埋まり、また島津方が城を焼失させる作戦に切り替えたため城内の牛馬二百頭が炎に焼かれて死んだという。
やがて城は本丸を残すのみとなったが、重方は弟の米良矩重と共に奮戦、やがて稲荷山に須木城からの援軍を得て城兵と共に島津軍を挟撃、阿多中務、末弘又左衛門、椎原助十郎ら島津の主だった将が討たれ、義弘も重傷となると島津軍は退却し、小林城は守られた。
なお、このときの戦死者数などは不明であるが相当数の死傷者を出したようであり、島津忠良(日新斎)と島津貴久は、双方の戦死者を弔うために冒頭に「南・無・阿・弥・陀・佛」を冠した和歌を詠じている。
元亀三年(1572年)五月三日、翌日の加久藤城攻略のための伊東軍の出立場所となった(木崎原の戦い)。
この戦いで城主であった米良重方は討ち取られた。また、その時に亡くなった伊東の将兵を供養する伊東塚へは、小林城から歩いて行けるほど比較的近い場所にある。
天正四年(1576年)八月二十四日、兄の死後に城主を務めていた米良矩重が主君への恨みから島津軍に寝返った。小林城は同じく矩重が治めていた須木城と共に島津氏の城となり鎌田政年が派遣された。
同二十八日に、高原城を下した義久ら三万人近くの将兵が入城、戦勝祝賀が催された。
天正十五年(1587年)の豊臣秀吉による九州征伐の際は、豊臣勢を迎え撃つべく川上忠兄が小林城に籠って迎撃準備を図っている。
慶長二十年(1615年)の一国一城令により廃城となり、藩主の居住以外は認められなくなった。
後年、西南戦争で敗れた西郷隆盛は退却の際、二度小林を通っているが、その二回目の明治十年(1877年)八月二十八日に、この小林城の真下の街道を通って鹿児島へと帰還した(西郷どんの道)。