岩屋城 (いわやじょう)
所在地 福岡県太宰府市大字観世音寺/大字太宰府 2013.10.8 2020.9.19
岩屋城 (いわやじょう)
所在地 福岡県太宰府市大字観世音寺/大字太宰府 2013.10.8 2020.9.19
登城ルート
登り口・説明板
本丸背後の堀切
本丸跡・城址碑
二の丸・高橋紹運の墓入口
二の丸にある高橋紹運の墓
【感想】 四王寺山(標高410m)の南の岩屋山(標高281m)に本丸が築かれており、背後に土塁、堀切がある。さらに背後に浅い2重堀切が見られる。
また、南西尾根に細長い二の丸がありその基部に堀切が残っている。南西に段郭があり、堀切、小郭がある。
【案内】 「県民の森センター」(宇美町四王寺207)駐車場の南約1.8㎞に登り口がある[マップコード55 362 650*20]。
堀切や土塁が残り本丸曲輪に「嗚呼壮烈・岩屋城址」の石碑が建てられ、東から南にかけて大宰府の町並が見下ろせる。
道路を挟んで南に約100m降ると、二の丸の端に土盛りの「高橋紹運の墓」が祀られている。
【歴史】 築城は天文年間(1532~55年)に大友氏の武将・高橋鑑種(あきたね)と伝えられ、立花城と共に大友家の筑前支配の拠点であった。
しかし、高橋鑑種は主君・大友宗麟の傲慢な振る舞いに憤り、反旗を翻したために城を逐われ、小倉城に領地替えとなった。
大友家の宿老吉弘鑑理(よしひろあきまさ)の二男鎮種(しげたね)が高橋氏の名跡を継いで「高橋鎮種」と名乗り宝満城・岩屋城の両城主となった。
天正十三年(1585年)、立花城主・立花道雪の死去後、長男統虎が道雪の養子として城主となり、次男の統増が高橋家の本城である宝満城に入城し、一族三人で大友家の筑前での拠点防衛についた。
天正十四年(1586年)七月十三日、筑前一帯を平定し、関白秀吉の九州襲来を阻まんとする島津氏が2万の大軍で攻め寄せ、大宰府政庁跡の東にある観世音寺(太宰府市観世音寺5丁目6-1)に陣を設けた。
紹運(高橋鎮種の出家後の名・じょううん)は7百余名と共に篭城。激戦十余日頑強に抵抗したものの、各出城や砦が次々と陥落、城主紹運も自ら薙刀を取り敵中に入ったが力尽き、秀吉の援軍到着を待たず敵陣に矢止めを乞うたのち高櫓の上に登り自害した。
残された将兵もあとを追い玉砕、同年七月二十七日落城し、廃城となった。紹運が高櫓の扉に書き残したとされる辞世の歌は、「屍をば岩屋の苔に埋みてぞ雲居の空に名をとどむべき」であった。