勝山城 (かつやまじょう) (且山城)
最寄地 山口県下関市田倉116−155 2014.5.14
勝山城 (かつやまじょう) (且山城)
最寄地 山口県下関市田倉116−155 2014.5.14
登城ルート
登山口(大王寺左を直進)
尾根(右へ)・左が青山城
石垣
主郭跡
櫓跡
勝山城跡(地図)
【遺構★★★☆☆ 比高230m】
【案内・感想】 勝山御殿の駐車場を利用できる[マップコード557 671 268*24]。少し北に歩いて、大王寺(表記番地)西の道を400m行くと登り口(地図)がある。
西に約600m(比高約200m)登ってゆく途中「天狗の岩屋」があり、やがて尾根に出る(地図)。
尾根を南(左)に2㎞ほど行くと青山城跡があり、北(右)に約500m登る。
標高361m比高約230mの勝山山頂に築かれた連郭式の山城の勝山城跡であり、頂上近く腰郭に石垣が残る。
頂上は郭が開け、南端に櫓跡がある。そこから下関市街や青山が望める。
【歴史】 築城年代は不明だが、永和四年(1378年)に大内氏家臣の永富嗣光が築城したとも言われる。
大永元年(1521年)に、九州に対する備えとして守護大名大内氏の重臣内藤興盛が入った。
大永七年(1527年)に、近接する青山城の城主高森正倫との間に諍いが起きた。高森氏は津原膳勝や津田興輝らの加勢を得て1万2千の軍勢で且山城を取り囲むも、内藤氏には大内氏が加勢して3万5千の大軍となった。逆襲に転じた内藤勢は、青山を攻め落とした(勝山青山の戦い、青山くずれ)。
天文二十四年(1555年)の厳島の戦いで勝利した毛利元就による周防・長門への侵攻(防長経略)により、弘治三年(1557年)三月に大内義長は本拠地である山口を脱出し、内藤隆世と共にこの城に籠城して毛利軍と戦った。
要害であった勝山城を包囲した元就が矢文によって降伏を促したところ、四月二日に開城して、義長の助命を嘆願する隆世は自害した。
その後義長は、勝山城を出て長福寺(功山寺)に入ったが、翌三日には攻め寄せた毛利軍に追い詰められて自害した。
落城後は、入江箸親が城番となった。