丸尾城 (まるおじょう)
所在地 長崎県島原市本光寺町3380 2019.12.10
丸尾城 (まるおじょう)
所在地 長崎県島原市本光寺町3380 2019.12.10
本光寺
説明板
墓所への石段
松平家一の廟所
松平家の墓
丸尾城跡(地図)
【遺構★★☆☆☆】
【感想】 本光寺本堂北側の小山が丸尾城跡で、墓地として改変され遺構はほとんど見られない。
【案内】 松平家の菩提寺である本光寺が建てられており、南側の駐車場が利用できる[マップコード 173 747 467*26]。
本堂北側の小山に松平家の廟所があり、そこが丸尾城で石段の途中に説明板が建てられている。
【歴史】 築城時期など不明であるが、戦国時代、島原氏が浜の城の山手側を守る為に築城したと言われる。
天正十二年(1584年)三月二十四日、日野江城主・有馬晴信及び援軍の島津氏の連合軍約6千と、島原半島制圧を目論む佐賀城の龍造寺隆信(約2万5千~6万)の合戦が島原で行われた(沖田畷の戦い)。
龍造寺方は部隊を3軍(海手・中央・隆信本隊・山手)に分け、森岳(現島原城)の有馬・島津連合軍を目指した。
この丸尾城においては、佐賀方の山手方面隊の鍋島直茂を、島津の将猿亘信光が迎え討ち激戦が繰り広げられた。猿亘の嫡子弥次郎も討たれ、陥落寸前の時、龍造寺隆信戦死の報が伝わり、鍋島勢は退却した。
劣勢をはねかえし、勝利した有馬晴信は領国を保全し、援助してくれた宣教師達との繋がりを深め、島原半島はキリシタンの国となった。
しかし、徳川家康がキリスト教を禁教した後、強固な信仰を持つに至った領民を有馬氏は統御できず、延岡へ国替えとなり「島原の乱」の遠因となった。