星ノ岡城 (ほしのおかじょう)
最寄地 愛媛県松山市星岡1丁目1−8 2018.3.6
星ノ岡城 (ほしのおかじょう)
最寄地 愛媛県松山市星岡1丁目1−8 2018.3.6
説明板
登城ルート(緑線は車道)
小野川の雲門寺橋
入口
薬師堂
表忠碑
星ノ岡城跡(地図)
【遺構★★☆☆☆ 比高40m】
【感想】 雲門寺北の「星岡表忠之碑」の建つ標高75mの頂上は緩やかに傾斜しており、南に一段下がって平段があり薬師堂が建てられている。西側に谷がある程度で、防御施設はほとんど見られない。
【案内】 雲門寺(表記番地)[マップコード53 229 445*68]から西へ行き、右へ登ってゆくと薬師堂があり、その背後の山頂に「星岡表忠之碑」と説明板が建てられている。
【歴史】 築城年代は定かではないが、鎌倉時代末期に築かれた。元弘の変(1331年)後、次第に衰退してゆく鎌倉幕府を倒し、王政復古を目指す後醍醐天皇の皇子護良(もりなが)親王の令旨を受け、久米郡の土居通増、桑村郡得能(西条市丹原町)の得能義範、越智郡大三島(今治市大三島)の大祝安親らが兵を挙げた。
元弘三年(1333年)長門探題長官・北条時直は伊予の勤王軍討伐のため、二月二日兵を率いて越智郡の石井浜(今治市近見)に上陸したが敗退した。
続いて三月に入り水居津(松山市今出、三津付近と云われる)に上陸、星ノ岡城を占拠した。
三月十二日、土居・得能らの連合軍に攻められ、探題府の軍は全滅に近い敗北となり、時直は身一つで逃れたといわれる。『松山市教育委員会説明板』より。