夷山城 (えびすやまじょう)
所在地 徳島県徳島市八万町夷山27 2014.5.17
夷山城 (えびすやまじょう)
所在地 徳島県徳島市八万町夷山27 2014.5.17
夷山緑地・円福寺公園
石垣・城址碑
城址碑
【遺構★★☆☆☆】
【案内・感想】 圓福寺(表記番地)の高台に夷山緑地・円福寺公園として整備されている(地図)。
公園から北に約30m下った民家(地図:大和設備工業(株)の東向)に、公道に面して石垣と「夷山城址」の石碑がある[マップコード56 169 404*81] 。この一帯が夷山城跡と比定されている。
【歴史】 天文二十一年(1552年)、細川真之によって築かれた。
その後、弘治年間に篠原佐吉兵衛が城主となったが、永禄五年(1562年)和泉国の戦いで戦死した。
篠原佐吉兵衛の息子である篠原右京は幼少のため、篠原長房や伊沢頼俊に保護されていたが、天正四年(1576年)に、家臣庄野兼時を伴って夷山城に入った。
翌年、一宮城主の一宮成助(成祐)が三好康長と争って長宗我部元親に援軍を求めた際、庄野兼時も長宗我部方に降った。
篠原右京は19歳になった天正八年(1580年)讃岐国の十河存保の元へ去った。
天正十年(1582年)、織田信長による四国攻めの先陣として三好康長が夷山城を攻めると、兼時や長宗我部方武将は城郭を破壊して去った。
康長は夷山を根拠地として三好氏の旧臣を招き、麻植氏や一宮成助らがこれに応じたが、同年六月、本能寺の変により康長は急遽上洛した。
三好康長の上洛を知った長宗我部元親は再び阿波に侵攻し、中富川の戦いで長宗我部元親により攻められ落城した。
阿波を平定した元親は、一宮成助の変心を許せず、成助を夷山城に招き誅殺した。
庄野兼時には新たに加増されが、天正十三年(1585年)羽柴秀吉による四国征伐で、土佐に敗走した。