金川城 (かながわじょう) (玉松城)
最寄地 岡山県岡山市北区御津金川529 2021.2.12
金川城 (かながわじょう) (玉松城)
最寄地 岡山県岡山市北区御津金川529 2021.2.12
登城ルート
津山線高架下の登り口
道林寺丸の石垣
北の丸
北の丸北2条目の堀切
天守の井戸
本丸・五輪塔
二の丸南端
金川城跡(地図)
【遺構★★★★☆ 比高190m】
【感想】 御津金川/草生/下田に跨る標高約220mの臥竜山に築かれている。東の旭川、南西の宇甘川に挟まれた要害となっている。
北尾根の2条の堀切は見応えがあり、3本の井戸や枡形虎口、道林寺丸の石垣など見所は多い。
【案内】 県道31号線に面した「御津町郷土歴史資料館」(表記番地)の駐車場が利用できる[マップコード275 471 386*46]。
津山線を潜り、妙覚寺西を通って北に行くと案内板が建てられ、パンフレットが置かれている。
北へ遊歩道を歩き左の谷を越え西に登ると「道林寺丸」があり石垣がよく残っている。
北東に登ると、北の丸と本丸の分岐に着き、北の丸の南東谷に「白水の井戸」があり、北の丸の北に2条の堀切が見られる。
戻って本丸の北に堀切、北東下段に「天守の井戸」が残っている。本丸虎口に石積みがあり、北側に土塁があり、中央に五輪塔が祀られ説明板が建てられている。
南下段に枡形虎口があり、二の丸に続き、南側に「杉の井戸」がある。
さらに南に下ると出丸がある。
【歴史】 鎌倉時代中期、承久の乱で鎌倉幕府方につき軍功のあった松田盛朝は、備前国御野郡に所領を与えられた。承久三年(1221年)頃に最初の築城があったと考えられる。
その後、松田氏は岡山平野に進出し、富山城に本拠を置いた。室町時代中期の文明十五年(1483年)、松田元成は富山城より本拠を金川城に移し、城を拡充し連郭式の山城が整った。
永正六年(1509年)城主元勝は三条西実隆より玉松・麗水の2書を贈られ、以後玉松城と命名した。
松田氏は備前国西部を領し、備前守護大名赤松氏や守護代浦上氏と対峙した。
岡山県下でも天神山城と並んで最大級の規模を誇る中世山城であり「西備前一の堅城」と謳われたという。 また、日蓮宗の信仰厚い松田氏は本丸西の尾根筋に有り守備の要である段々曲輪、道林寺丸の中に日蓮宗の道場、道林寺を築いた。
建城以来、一度も陥落したことはなかったが、戦国時代の永禄十一年(1568年)七月、当主・松田元賢が妻の父である宇喜多直家に攻められた際には、あらかじめ宇喜多方と通じていた家臣の伊賀久隆に開戦前に城内の一部を占拠されるなど不意打ちを受けた事も有りわずか2日で落城した。
元賢と父の松田元輝、松田氏の重臣多数がこの戦いで討たれ松田氏の宗家はこれにより滅亡した。
落城が七月七日であったので土地の人々は長い間七夕祭を行わなかったと伝えられている。
その後、宇喜多氏の城代として直家の弟・宇喜多春家が入った。慶長五年(1600年)関ヶ原の戦いで宇喜多氏は改易となった。代わって小早川秀秋が備前に入ったが、秀秋は金川城を廃城とした。