桜尾城 (さくらおじょう)
所在地 広島県廿日市市桜尾本町11 2016.5.18
桜尾城 (さくらおじょう)
所在地 広島県廿日市市桜尾本町11 2016.5.18
桂公園入口・城址碑
桂公園碑
桂公園
【遺構★★☆☆☆】
【案内・感想】 国道2号線より北に50mほど入った所より、東に登ると桂公園駐車場が用意されている[マップコード103 686 433*27](地図)。入り口の擁壁上に「桜尾城址」の石碑(碑文)が建てられている。
駐車場の横に、第11・13・15代総理大臣・桂太郎書による「桂公園碑」が建てられている。児童公園などとなり遺構は殆ど無い。
【歴史】 承久三年(1221年)の承久の乱の結果、中原親能の一族である藤原親実が新たな厳島神主となり桜尾城を築いた。しかし藤原親実は幕府の要人でもあり、厳島に下向して神職を務めることはなく、代官による支配であった。しかし時代が下り、幕政が混乱すると藤原氏が下向して桜尾城に入城し、直接支配するようになった。
室町時代には武田信賢が厳島神主家の社領に侵入し、永享十三年/嘉吉元年(1441年)には桜尾城も包囲されるに至ったが撃退した。
その後は大内氏の傘下に入り、桜尾城も平穏であったが、戦国時代になると家督を巡って一族で争いが起き、長い内紛の結果、友田興藤が家督を継承し、桜尾城を新たな居城とした。
その後、大内氏が家督に介入してきたため、興藤は尼子氏と通じて天文十年(1541年)に大内氏を離反したが、逆に大内義隆に攻撃され桜尾城は落城、興藤は自害した。
友田興藤自害後は、大内家臣の杉隆真が佐伯景教と名乗って新たな当主となった。
大寧寺の変後は陶家臣の江良賢宣などが城番となっていたが、大内・陶氏に反旗を翻した毛利軍の侵攻により天文二十三年(1554年)五月十二日に開城、毛利元就の支配下に入った(防芸引分)。
城主として桂元澄が入城し、天文二十四年(1555年)の厳島の戦いでの後方支援を担った。戦いの後に自害した陶晴賢の首実検もこの城で行われた。
その後も桜尾城は桂元澄の居城として続くが、元澄の死後、毛利元就の四男の穂井元清に与えられた。
天正十四年(1586年)から豊臣秀吉が九州征伐を開始。翌年、豊臣秀吉が九州に向かう途中、桜尾城に立ち寄り、厳島神社を参詣している。
慶長五年(1600年)の関ヶ原の戦いの後、安芸国は福島正則の支配地となった。この時に桜尾城も存在価値を失い、廃城となった。