脇城 (わきじょう) (虎伏城)
最寄地 徳島県美馬市脇町大字脇町1161-2 2017.9.22
脇城 (わきじょう) (虎伏城)
最寄地 徳島県美馬市脇町大字脇町1161-2 2017.9.22
登城ルート
道標
3の丸虎口
土橋・空堀
本丸・土塁
横堀
脇城 本丸跡(地図)
【遺構★★★☆☆】
【感想】 吉野川左岸、脇町にある虎伏山と呼ばれる丘陵先端部にある。東側の畑や山林となっている2の丸との間に、巾約6mの空堀がある。
本丸は雑木や篠竹の藪となっているが、土塁、石積井戸があり、北側に深い横堀が残っている。
【案内】 県道12号線より県道199号線に入り「本町」交差点を直進し「秋葉公園」の標識がある角を左折、川を渡って200m行き、右折して北へ行った宗心墓苑駐車場が利用できる[マップコード160242 464*07](地図)
秋葉神社の参道を登り、神社前の道を登ってゆくとガードレールのある所に道標がある。左に曲がって少し登ると、3の丸、2の丸があり、土橋と空堀の西に本丸がある。
【歴史】 戦国時代、脇権守が館を構えたのが始まりであると云われている。
天文二年(1533年)、三好長慶が築城し、三河守兼則が城主となった。当時は、西にあった岩倉城と合わせて阿波の西部を守る体制をとっており、城の規模は岩倉城の方がやや大きかった。
その後、武田信玄の異母弟とも言われ、三好家家臣となっていた武田信顕が城主となった。
天正七年(1579年)長宗我部元親が攻めよせ、調略によって岩倉城の三好好俊と共に信顕は長宗我部方に寝返った。好俊と信顕は謀略によって三好方の軍勢をおびき出し、これを脇城下で全滅させた。この戦いの後、再び三好康長方についた。
天正十年(1582年)再び長宗我部勢が攻めよせ八月に落城し、信顕と息子の信定は讃岐に逃れたが戦死した。落城後、長宗我部親吉が守った。
天正十三年(1585年)の羽柴秀吉の四国攻めで、羽柴秀次の軍に屈して降伏、開城した。親吉は土佐に帰る途中で土豪の待ち伏せに逢い戦死した。
天正十四年(1586年)蜂須賀家政が阿波国の領主となると、阿波九城(一宮城・撫養城・西条城・川島城・大西城・海部城・牛岐城・脇城・仁宇城)の一つと位置づけられた。
家政は特に脇城を重要視し、家臣団の筆頭家老・稲田植元に1万石を与え、城代とした。
稲田氏は城の強化と城下町の整備を行い、脇の町は阿波西部の中心地として繁栄した。しかし一国一城令により、寛永十五年(1638年)に廃城となった。