銭坂城 (ぜにさかじょう) (相賀新城・生地城 )(おんじじょう)
最寄地 和歌山県橋本市野281 2018.7.12
銭坂城 (ぜにさかじょう) (相賀新城・生地城 )(おんじじょう)
最寄地 和歌山県橋本市野281 2018.7.12
城ノ内踏切より
生地石見守の石碑
鈴鹿神社の土塁
銭坂城跡(地図)
【遺構★★☆☆☆】
【感想】 橋本市野の、紀の川とその支流山田川に挟まれ、東に伸びた舌状台地にある。
大部分宅地化しているが、細い道路の曲り角に生地石見守の石碑と土塁が残っている。
【案内】 国道24号線よりJR和歌山線「城ノ内踏切」を渡り、西に細い道を登ってゆくと表記番地手前に「生地石見守」の石碑が建てられている[マップコード205 821 402*11]。
その手前を左に入ると鈴鹿神社があり、そこに唯一駐車できる。土塁上には坂上田村麻呂を祭神とする鈴鹿神社がある。
【歴史】 生地(おんじ)氏は、坂上田村麻呂の流れを汲み、承久年間(1219~22年)坂上朝澄が軍功を立て、畑山城を築き居城とした。
その後、伊都郡司として楠木正成と婚姻関係を結び、河内千早・赤坂城などの戦いに加わり、以降も南朝に属して没落した。
応永年間(1394~1428年)畠山基国に属し、足利義満から旧地を与えられた。
永享年間(1429~41年)初頭、生地俊澄が相賀新城(後の銭坂城)を築城し、居城を畑山城から移し、生地氏中興の祖となった。
俊澄の6世孫忠澄(安芸守)には嗣子なく、政澄(石見守)を養子に迎えた。政澄の子吉澄(新左衛門)は、畠山氏に属し、畠山氏滅亡後は織田信長、豊臣秀吉に属した。
慶長五年(1600年)の関ヶ原の戦いで西軍に付き討死し、生地氏は改易となった。