山野城 (やまのじょう) (朽綱城) (くたみじょう) (市の史跡)
最寄地 大分県竹田市久住町大字仏原1066−2 2019.5.7
山野城 (やまのじょう) (朽綱城) (くたみじょう) (市の史跡)
最寄地 大分県竹田市久住町大字仏原1066−2 2019.5.7
登城ルート(緑線は車道)
林道入口
説明板
南側の堀切
林道横の城跡碑
主郭
北側の堀切・主郭切岸
山野城跡(地図)
【遺構★★★☆☆】
【感想】 久住町大字仏原の久住連山「黒岳」から南東に伸びる標高約750mの尾根上に築かれている。
北西側に幅広の堀切があり、南北に細長い主郭がある。手入れされた切岸がよく残っている。南側は藪で、その南にも堀切がある。
【案内】 三船温泉(表記番地)の北「民宿くじら→」の看板のある所から西へ約3km行き、右折「奥豊後グリーンロード」を約2.8km行くとカーブミラーのある舗装林道始点に着く[マップコード440 595 101*24](地図)。
そこから北西へ約2km行くと、右側に城跡碑、説明板が建てられている[マップコード440 623 328*61]。(地図)
昭和四十四年(1969年)6月24日、久住町(現竹田市)の史跡に指定された。
【歴史】 斎宮次官藤原親能の孫古庄重吉は、建久七年(1196年)大友能直に従い下向し、朽綱(くたみ)郷に入り朽綱氏を名乗り、山野城を築いた。
永正十五年(1518年)朽網親満は謀反の嫌疑により大友氏により討たれ、藤原姓古庄氏嫡流は絶えた。
16世紀前半、入田親廉の次男・鑑康(のち宗暦)は絶えていた朽網氏を継いで朽網鑑康(あきやす)と名乗り、旧城を拡張し、要害とした。
天正十四年(1586年)島津氏との豊薩戦争で、宗暦の子・朽綱鎮則(しげのり)は三船城で戦うが、抗戦しきれず山野城に撤収して戦ったが、父宗暦の死もあり士気が低下し、遂に島津軍と和睦した。
翌、天正十五年(1587年)豊臣秀吉の九州平定が始まり、大友義統は島津方に降ったものを許さなかった。
朽綱鎮則は佐賀関へ逃れようとしたが、大分市乙津で徳丸筑前守の追手に包囲され自刃した。その後廃城となった。