古麓城 (新城) (ふるふもとじょう(しんじょう)) (八代城・内河城) (国の史跡)
最寄地 熊本県八代市古麓町971 2014.9.9 2020.9.21
古麓城 (新城) (ふるふもとじょう(しんじょう)) (八代城・内河城) (国の史跡)
最寄地 熊本県八代市古麓町971 2014.9.9 2020.9.21
登城ルート(緑線は車道)
新城登り口・説明板
二の丸跡
本丸への階段
本丸跡
北東尾根1条目の堀切
北東尾根2条目の堀切
南側堀切・鞍掛城へ
古麓城 新城跡(地図)
【遺構★★★☆☆ 比高90m】
【感想】 八代市古麓町の球磨川右岸にある標高137mの山頂に築かれている。
本丸と北下段の二の丸から構成され、北東尾根に2条の堀切が良く残っている。また鞍掛城へ続く南尾根にも浅い堀切がある。
【案内】 県道158号線の春光寺(表記番地)に向かう角付近に「名和氏城下町跡」の碑が建てられている。
春光寺の横を南東に100m登ったところに駐車場があり古麓城跡の案内板が建てられている [マップコード128 256 379*20]。
そこより配水タンクに向かう道を100mほど行くと、新城への登山口があり、比高約90mの山頂に新城の二の丸、本丸がある。
建武元年(1334年)から文明十六年(1484年)までの名和氏時代は、飯盛城を主城として丸山城(新城の尾根続きの西)・鞍掛城(新城の尾根続きの南)・勝尾城・八丁嶽城(標高376mの八丁山山頂)の五城にて構成されていた。
文明十六年(1484年)から天正九年(1581年)までの相良氏時代は、新たに主城の鷹峰城(新城の尾根続きの鞍掛城の南)とこの新城を築き、七城にて構成されていた。
平成二十六年(2014年)3月18日、「八代城跡群」として古麓城跡が国の史跡に指定された。
【歴史】 建武元年(1334年)、建武の新政の功臣である名和長年の子・義高は肥後国八代荘の地頭職に任じられ、翌年、地頭代として八代(やつしろ)に下向した一族の内河義真が八代城(古麓城)を築いた。
永徳元年(1381年)、九州探題今川了俊が九州の南朝勢力の中心・菊池氏の本拠地隈府城を陥れると、のち征西将軍宮良成親王・菊池武朝らは名和長年の孫・顕興を頼り、八代が九州の南朝方の最後の拠点となった。
しかし元中八年(明徳二年、1391年)には八代城も落とされ、顕興は幕府方に降った。
十五世紀後半には、八代進出を目指す球磨郡の相良氏と名和氏との抗争が繰り返された。
文明十六年(1484年)相良為続は古麓城を落城させて名和氏を追放したが、明応八年(1499年)に肥後国守護職の菊池能運(よしかず)の援助によって名和顕忠(あきただ)が八代に復帰した。
しかし、文亀三年(1503年)に名和氏は北の木原城(富合町木原)に退き、永正元年(1504年)に相良長毎(ながつね)が古麓城に入城して八代を領地とした。以後相良氏が古麓城を拠点として肥後南部の戦国大名に成長する。
天正九年(1581年)、北に勢力を伸ばした薩摩の島津氏が響野原の戦いで相良義陽(よしひ)を討ち取り八代を支配した。翌十年島津氏は肥後に侵攻し、島津義弘を守護代に据え、古麓城には平田光宗が入った。
しかし、天正十五年(1587年)豊臣秀吉の九州征伐により、島津氏は薩摩に退却した。九州征伐の最中の四月十九日に秀吉が古麓城に四日間滞在し、宣教師ルイス・フロイスの面会を受けた。
九州征伐の後、佐々成政が古麓城など肥後国を領した。翌年、成政は国衆一揆の責を負わされ切腹させられた。
その後八代は小西行長の領地となり、行長は麦島城を築いて移り、古麓城は廃城となった。