八木城 (やぎじょう)
最寄地 広島県広島市安佐南区八木5丁目34−1 2019.5.11
八木城 (やぎじょう)
最寄地 広島県広島市安佐南区八木5丁目34−1 2019.5.11
登城ルート
崩落個所・残った道(黄線)
北側階段
主郭
主郭西側切岸・空堀
2郭・権五郎神社
八木城跡(地図)
【遺構★★★☆☆ 比高30m】
【感想】 太田川右岸の標高69mの城山と南西の頂上に築かれている。
北側の城山が主郭で、登り道が失われ放置され、荒れ放題であった。主郭の南側に幅広の堀が見られた。
平成30年7月豪雨で安佐北区・南区は真砂土崩落が起き、一夜にして山崩れが起き、人命も多く失われたテレビ報道を思い出す。三入高松城登り口付近もそうだが、ここ八木城の北も崩落したと思われる。
【案内】 県道271号線「高瀬大橋西詰」交差点より、太田川右岸の道路を北東に行き、市立「城山北中学校」(表記番地)入口付近に駐車する。
中学校を反時計回りに迂回するように歩き、城山北に行く。国道183号線から入った西側の道は狭く、すれ違いも苦労するため、太田川から入った方を薦めたい。
城山北側に、道があったが真砂土崩落で一部消滅している(地図)。斜面を直登すると、道が現れ、階段の上が主郭である。
通行不能となり主郭は公園か何かであったと思われるが、放置され荒れていた。
戻って西側の道を登ると、2郭に着き、水道施設や香川氏の祖鎌倉権五郎景政を祀る権五郎神社がある。
【歴史】 承久三年(1221年)の承久の乱で、戦功を立てた香川経景は安芸国八木を与えられ、その子香川景光が安芸国に移住して八木城を築城したと言われる。
景光のあと、安景、清景、行景、遠景、景春、景信、師景、方景、吉景、行景(行景には妻子無く舎弟元景が家督相続)、元景、光景まで13代の居城となった。
香川氏は安芸国守護・武田氏の重鎮として活躍した。
永正十四年(1517年)の有田中井手の戦いにおいて、安芸武田氏当主武田元繁やその傘下の熊谷氏当主熊谷元直が、毛利元就と宮庄経友率いる毛利吉川連合軍に敗北し討死した。
時の香川氏当主香川行景は主の仇を討てないのは無念とし、敗残の兵を纏め己斐師道とともに突撃し討死した。
元繁の死後の安芸武田氏は内部の混乱が続き、重臣同士の争いが頻発するようになった。
八木城もその混乱に巻き込まれ、同じく武田氏重臣であった品川左京亮の攻撃を受けている。
香川光景らは毛利元就に従い、八木城はその居城として栄えたが、慶長五年(1600年)の関ヶ原の戦いの敗北の結果、毛利氏の防長移封に従って萩に移り、八木城は廃城となった。