鴨山城 (かもやまじょう) (鴨方城・加茂山城・清滝山城)
最寄地 岡山県浅口市鴨方町鴨方303 2014.9.3
鴨山城 (かもやまじょう) (鴨方城・加茂山城・清滝山城)
最寄地 岡山県浅口市鴨方町鴨方303 2014.9.3
登城ルート(緑線は車道)
登り口
虎口
主郭・仏像(19番)
主郭
鴨山城趾碑
鴨山城 主郭跡(地図)
【遺構★★★☆☆ 比高40m】
【案内・感想】 鴨神社(表記番地)の西の道を約800m登った峠北に駐車スペースがあり、登り口標識がある[マップコード111 160 063*28](地図)。
西に100mほど登る途中に仏像が点在し置かれている。仏像の刻まれた大岩があり、その下を回り込むと、南に細長い比高40mの主郭がある。
一段下がった南端に城趾碑があり、表に「鴨山城趾」、裏に「城主細川公之遺趾・自応永十四年至慶長五年・家臣之後裔建之」と刻まれている。南端からは鴨方町の町並が眼下に望める。
【歴史】 管領細川勝元の嫡男管領細川満元の弟満国は分家の形となり浅口郡、宇摩郡などの守護に任じられ野州家初代となった。
満国の子持春、孫の教春は下野守を名乗り、この一族は野州家と呼ばれた。なお細川氏は近畿一円、四国に勢力範囲を広げており、さらに中国地方への勢力拡大の足掛りとして、応永十四年(1407年)瀬戸内海沿いの備前国児島、備中国浅口の地(鴨山城)などを選び築城した。
近畿より四国に移っていた伊予川之江城に在った教春の曾孫・細川通薫(みちただ)は通政(後に輝政)の養子となり、やがて毛利氏の援助を受けて失地回復に乗り出した。
永禄二年(1559年)、まず現在の笠岡市大島に青佐山城を築き、次に浅口市南部に竜王山城、そして天正三年(1575年)に鴨山城へ入った。
通薫は本城を改修しさらなる勢力回復に努めるが、次第に毛利氏傘下の一武将として遇されるようになった。
この間の元亀元年(1570年)に、宇摩郡などは同じく毛利氏の同盟者となった河野氏に譲渡(併呑)されている。
毛利氏は織田信長と対立を深めるようになり、通薫も高松城の水攻めに参陣した。
しかし本能寺の変の後は一転し、後継となった羽柴秀吉と同盟した。天正十五年(1587年)、通薫は豊臣秀吉の九州征伐に際し、毛利氏先鋒を勤めたが、帰国途中の赤間関で死没した。
通薫の子元通は毛利輝元の配下として朝鮮出兵に出陣し軍功を収めた。慶長五年(1600年)の関ヶ原の戦い後に、西軍の毛利氏が周防国、長門国二ヶ国に削封されると元通も鴨山城を去り、廃城となった。元通の子孫は長州で明治維新を迎えている。