大森城 (おおもりじょう)
最寄地 滋賀県東近江市大森町699−1 2019.7.7
大森城 (おおもりじょう)
最寄地 滋賀県東近江市大森町699−1 2019.7.7
登城ルート(緑線は車道)
西側堀切
主郭・土塁
食違い虎口
2郭
西側坂土橋
大森城跡(地図)
【遺構★★★☆☆ 比高50m】
【感想】 東近江市大森町の標高223.7mの丘陵に築かれている。
山頂の主郭は土塁で囲まれ、南西側に櫓台があり、食違い虎口を経て西側下段に2郭がある。北側に井戸や、蔀池の谷を挟んで北尾根に北櫓台がある。
また、西側尾根に堀切がよく残っている。
【案内】 県道46号線「大森町」交差点より南へ、大森神社(表記番地)に向かう。
大森神社参道手前より左に林道があり、600m弱行くと右側に登り口標識があり(地図) 、その先に駐車できる[マップコード67 567 806*72]。
そこから遊歩道が整備され、要所に標識が建てられている。
【歴史】 守護六角氏の家臣・布施氏により築かれたと云われる。一族のうち、布施三河守家と布施淡路守家が有力であった。
本家布施三河守は、永禄六年(1563年)の観音寺騒動の後、永禄九年(1566年)には、北近江の浅井氏と呼応して、布施山城で六角氏に反旗を翻した。
永禄十年(1567年)六角氏の結束を強化するための「六角氏式目」には、布施淡路守公雄(きみかつ)の名があり、六角氏の有力家臣であったことが判る。観音寺城に布施淡路丸と呼ばれる広い曲輪があることからも窺われる。
布施淡路守公雄の子・藤九郎公保は永禄十一年(1568年)六角氏が没落した後、織田信長の眼に留まり馬廻衆として引き立てられた。しかし、天正十年(1582年)本能寺の変で信長と運命を共にしたとみられる。
その子・布施大学友次は、豊臣秀吉の時代には出羽最上氏の家臣となった。『現地説明板』より。