岡城 (おかじょう) (臥牛城・豊後竹田城) (国の史跡・日本100名城95)(日本さくら名所100選)
所在地 大分県竹田市竹田 2012.9.12 2019.12.8
岡城 (おかじょう) (臥牛城・豊後竹田城) (国の史跡・日本100名城95)(日本さくら名所100選)
所在地 大分県竹田市竹田 2012.9.12 2019.12.8
登城ルート(緑線は車道/緑丸は西の丸)
西の丸御殿跡・近戸門跡
本丸門跡
本丸跡碑・天守台
金倉跡
滝廉太郎坐像
三の丸北面高石垣
志賀氏館 本丸跡(地図)
【遺構★★★★☆】
【案内・感想】 国道502号線「岡城阯入口」交差点より約700m北東に登ると、標高325m天神山頂上西に大駐車場が用意されている[マップコード237 153 468*41](地図)。見学は有料(高校生以上300円・小中学生150円)となっている。
城域は、東西2500m、南北362m、総面積は23万4千㎡に及ぶ。頂上近くの岡城駐車場より東に行くと「岡城跡」の石碑があり、登ってゆくと大手門跡の虎口がある。近戸門跡があり、西には「西の丸御殿跡」の石垣が残っている。
東に行くと三の丸であり高石垣、「金倉跡」石垣が残る。さらに東に本丸門跡、天守台、本丸跡がある。又郷土出身の音楽家「瀧廉太郎像」や代表作「荒城の月」の歌詞石碑が立てられている。
本丸の東に「廟所」があり東端に下原門跡がある。石垣群はよく整備されている。
昭和十一年(1936年)年12月16日、国の史跡に指定された。平成十八年(2006年)4月6日、日本100名城(95番)に選定された。
平成二年(1990年)には、「岡城公園」として日本さくら名所100選に選定された。
【歴史】 伝承では、文治元年(1185年)に緒方惟義が源頼朝に追われた義経を迎えるために築城したことが始まりであるという。
南北朝の建武元年(1334年)に後醍醐天皇の支持を受けた大友氏一族の志賀貞朝により拡張され、岡城と名付けられたとされている。
天正十四年(1586年)、先に耳川の戦いで敗れ衰退した大友氏を下すべく、島津氏が豊後府内に快進撃中、岡城のみは志賀親次の指揮のもと再三にわたり島津軍を撃退し、親次はその功績から豊臣秀吉より天正十五年正月三日付けの褒状を受けた。
桃山時代の文禄二年(1593年)文禄の役(朝鮮征伐)で大友吉統が秀吉から鳳山撤退を責められ所領を没収されると、大友氏重臣の親次も岡城を去ることとなった。
翌年、播磨国三木城から中川秀成が移封され、入城後、三年をかけ大規模な修築を施した。
本丸に御三階櫓を設け、城門は志賀氏時代の大手口であった下原門に加えて近戸門を開き大手門を東向きの下原門から現在見られる西向きの位置に改め、三口とした。また、城下町は志賀氏時代の挟田に加えて西方に竹田町が整備された。
二代久盛の代には清水門が整備され、三代久清の時に西側の重臣団の屋敷を接収して西の丸を築き御殿を造営した。
岩盤の台地の上に築かれたため、台風や地震、火事などの被害を多く受け、特に八代中川久貞の明和八年(1771年)には本丸、西ノ丸、御廟など城の大半を焼く大火が起きている。
明治維新後、廃城令によって廃城とされ、明治四年(1871年)から翌年にかけて城内の建造物は全て破却され、現在残っているのは高く積み上げられた石垣のみである。