太田城 (おおたじょう)
所在地 和歌山県和歌山市太田2丁目3−7 2016.4.25
太田城 (おおたじょう)
所在地 和歌山県和歌山市太田2丁目3−7 2016.4.25
来迎寺
太田城趾碑
説明板
【遺構★☆☆☆☆】
【案内・感想】 来迎寺(表記番地)敷地となり、西側の山門横に説明板、居宅前に大きな「太田城趾碑」の石碑が建てられている(地図)。
【歴史】 延徳年間(1489~92年)、紀伊国造第64代紀俊連が、神領保護を目的として秋月城、三葛城、太田城を築城したと伝わっている。
城の範囲は、現在の来迎寺、玄通寺を中心に東西250m、南北200mで周囲に堀を巡らし、東に大門をもっていたとされる。
全国的に名を馳せたのは天正四年(1576年)に太田左近が修築もしくは築城した太田城に対して、天正十三年(1585年)三月、天下統一をめざす羽柴秀吉が自ら軍を進めた太田城水攻めである。岡山県高松城、埼玉県忍城と共に三大水攻めの一つに数えられる。
天正十三年(1585年)三月十日、羽柴秀吉自らが総大将に、羽柴秀長、羽柴秀次を副将とし10万の兵で出陣し、同年三月二十一日千石堀城から太田衆、雑賀衆、根来衆連合軍の諸城を次々に落城させていった。
次いで同年三月二十三日、風吹峠と桃坂の二方向から根来寺を攻め立てた。根来寺は当時堅固な要害であったが焼き払われてしまった。根来寺の大塔にはこの時のものと思われている銃弾跡が残っている。
羽柴秀吉軍の次の目標は太田城に向けられた。一方、太田党は太田左近宗正を大将として約5千人が太田城に立て籠もり、10万余人の秀吉軍に対して強く抵抗した為、秀吉軍は城を取り囲む総延長5~6kmにも及ぶ堤を築き、水攻めを行った。
攻防1ヶ月、遂に中心人物50余人の首を差し出すことを条件に、大勢が助命された。
同年四月二十六日に、次右衛門尉宗俊が根来寺明算に宛てた書状には、「秀吉様、昨日廿五日ら御馬納め候。小一郎殿に、一万人数をあい副えられ、岡山の普請仰せ付けられ候。頃日り両国の百姓衆をは御召し直し候。太田城の事は各々五十三首を刎ね、その女房ども廿三人、はた物に太田にあげ申され候。五十三の首は天王寺阿倍野に御かけ候。残りの衆は道具を出して候て、助かり申し候。太田も放火候」と記している。
文中にある小一郎殿とは羽柴秀長のことで、和歌山城の築城を開始している。また「はた物」とは磔のことで、53名の首が刎ねられ、女房衆23名が磔になり、その首は天王寺にさらし首になったとある。太田城も放火されこの時に廃城になったと思われている。
来迎寺の北東約50mには、戦いにより亡くなった者を葬った小山塚がある。
また北東200mには太田城の大門があった場所とされる大門橋、北東700mには水攻めの際に築いた堤跡が残っている。
なお西1kmの大立寺(和歌山市橋向丁5)の山門(和歌山市指定文化財)は、太田城の大門を移築したものと云われている。『来迎寺説明板・ウィキペディア』より。