福江城 (ふくえじょう) (石田城) (県の史跡)
所在地 長崎県五島市池田町1−4 2014.9.5
福江城 (ふくえじょう) (石田城) (県の史跡)
所在地 長崎県五島市池田町1−4 2014.9.5
石垣・外堀・歴史資料館
大手
本丸石垣・内堀・五島高校
五島氏庭園(工事中)
裏蹴出門
常灯鼻
福江城 本丸跡(地図)
【遺構★★★★★】
【案内・感想】 城跡北東にある虎口石垣を入り五島観光歴史資料館(表記番地)前に駐車場がある[マップコード334 386 835*00] (地図)。
北の丸跡に五島観光歴史資料館、五島市立図書館、福江文化会館の敷地となっており、城山神社が建てられている。堀、石垣の残る本丸跡には長崎県立五島高等学校が建てられている。
国道384号線に面した二の丸に裏蹴出門が保存され(地図)、虎口を入ると五島邸及び心字池の五島氏庭園((平成3.11.16指定)国の名勝・有料500円)がある。
昭和四十一年(1966年)9月31日、県の史跡に指定された。
【歴史】 慶長五年(1600年)の関ヶ原の戦いで、五島玄雅(はるまさ・宇久玄雅)は中立を保ち、戦後に徳川家康から所領を安堵されて初代福江藩主となった。
慶長十七年(1612年)に六十五歳で死去し、家督は養子の盛利(従兄弟・宇久盛長の長男)が継ぎ、二代藩主となった。
慶長十九年(1614年)に、五島氏の当時の居城・江川城が焼失し、代わって寛永十四年(1637年)に石田陣屋を藩庁にした。
五島氏は築城を幕府に願い続けたが、藩の財政難もあり中々実現しなかったが、異国船を監視、海上防衛に備えるとの目的で、幕末の嘉永二年(1849年)、十代五島盛成の時に築城が認められた。
盛成は海辺への築城に際し、福江川河口に、灯台にあたる「常灯鼻」(五島市東浜町1丁目2−5の東)を弘化三年(1846年)に建設、さらに波の影響から城を守るため、陸へと続く防波堤を嘉永元年(1848年)に完成させた。
安政五年(1858年)十代藩主五島盛成(もりあきら)は家督を子の盛徳に譲り隠殿と庭園を造った。
日本初の海城である高松城に続いての海城の築城には財政難や海沿い特有の問題もあり、竣工までに十四年の歳月を要し、最後の藩主・盛徳の代の文久三年(1863年)になり、福江城を完成させた。
1868年の明治維新により幕藩制度は廃止されたため、「日本最後の城」「日本一新しい城」とも称されるが、明治四年(1871年)には本丸二重櫓や建造物が解体された。