高山城 (こうやまじょう) (肝付城 ) (国の史跡)
最寄地 鹿児島県肝属郡肝付町新富9120 2014.9.10
高山城 (こうやまじょう) (肝付城 ) (国の史跡)
最寄地 鹿児島県肝属郡肝付町新富9120 2014.9.10
登城ルート
高山城跡碑
大手門跡
山伏城跡
二の丸西の空堀
二の丸跡
本丸跡・土塁
奥曲輪
高山城 本丸跡(地図)
【遺構★★★★☆ 比高50m】
【案内・感想】 県道561号線の高山川に架かる橋の東に「高山城跡」の石碑があり、約150m行った表記番地の本城小学校跡(現、肝付町本城集落センター・消防センター)に駐車できる[マップコード170 535 357*70] 。
その北に説明看板があり畑の道を北東に行くと「馬乗馬場跡」「大手口」がある(地図)。
比高50mほどの山が高山城跡であり、大手口より球ま(王へんに麻)屋敷跡、大来目神社、山伏城跡、二の丸跡(地図)、本丸跡、馬乗馬場跡、奥曲輪が空堀で分けられ、総面積50haの規模を誇る。
昭和二十年(1945年)2月22日、国の史跡に指定された。
【歴史】 平安時代末、島津荘の弁財使(荘園監督官)に任じられた平兼貞の子孫が土着しこの地に定住したことが始まりと伝える。
兼貞の子・兼俊は「肝付氏」を名乗った。肝付氏は十二世紀から約400年間、ここを拠点として大隅国の最大領主であった。
永正三年(1506六年)八月六日から十月十二日まで十四代肝付兼久が叛いたとして、島津氏十一代忠昌が柳井谷に陣を構え二ヶ月余にわたって攻めたが、攻略できなかった記録がある。
十六代肝付兼続の時に薩摩国の最大領主であった島津氏と日向国の最大領主であった伊東氏の間で巧みにバランスよく立ち回り肝付氏の絶頂期を築くが、やがて島津氏と対立して、天正元年(1573年)に高山城は落城した。
その後も領地を大幅に縮小したものの引き続き肝付氏はこの地の領主を務めた。
しかし天正八年(1580年)に肝付氏(十九代兼護・かねもり)は阿多(現南さつま市金峰町)に移封され、高山城は廃城となった。また、外城制としての機能は、支城であった弓張城に、高山麓が設置されて移された。