富海茶臼山城 (とのみちゃうすやまじょう)
所在地 山口県防府市富海 2019.5.2
富海茶臼山城 (とのみちゃうすやまじょう)
所在地 山口県防府市富海 2019.5.2
登城ルート
旧山陽道入口
大内輝弘の祠
旧山陽道の説明板手前を左へ
主郭
南の石積
南側の2郭
富海茶臼山城跡(地図)
【遺構★★★☆☆ 比高50m】
【感想】 防府市富海(ほうふしとのみ)の周防灘を望む標高107.6mの茶臼山に築かれている。
南北に2つの郭が残り、北側にある主郭の西半分は櫓台のように高くなっている。杉林で周防灘への眺望は効かない。
【案内】 県道58号線より富海海水浴場へ西側から入る市道があり、その入口から西に旧山陽道が伸びている[マップコード646 466 250*00](地図)。普通車も通れなくはないが、すれ違いが出来ず徒歩の方がよい。
旧山陽道を500mほど西に行くと、「茶臼山古戦場」の説明板が建てられ、後ろに大内輝弘の祠が祀られている(地図)。
その20m程手前から入ると、土塁の道があり堀道へ続いている。比高約50mの山頂に2段になった主郭がある。南側に石積がありその下段に細長い2郭がある。
【歴史】 築城時期など詳細は不明である。
天文二十年(1551年)大内義隆を滅ぼした家臣の陶(すえ)隆房(のち晴賢)は、天文二十四年(1555年)厳島の戦いで毛利元就に敗れた。
毛利元就は筑前・豊後の大友氏と覇権を争うようになり、大友軍は毛利軍の攻勢の前に一時は壊滅の危機に立たされていた。
永禄十二年(1569年)、大友宗麟の参謀である吉岡長増の進言により、宗麟は寄食していた大内輝弘に兵2千を与え、同年十月十一日に若林鎮興らの大友水軍を付けて密かに海上から周防国秋穂に上陸させた。
輝弘の率いる兵力は少なかったが水上戦では市川経好の軍を撃破した。 そして翌十二日、山口へ乱入し旧大友氏館に陣を構えた。
これを見た元就は筑前から兵を引き、吉川元春を総大将として山口に急行した。
大内輝弘は秋穂浦に逃れたが、船は無く最終的に茶臼山城で抗戦を試みた。しかし次第に追い詰められ、大内氏再興の夢もむなしく茶臼山城で自害した。
この間に、大友氏は筑前の諸城を奪還し勢力を盛り返した。