龍松山城 (りゅうしょうざんじょう) (市ノ瀬城・辰巻城) (町の史跡)
最寄地 和歌山県西牟婁郡上富田町市ノ瀬1976 2018.7.13
龍松山城 (りゅうしょうざんじょう) (市ノ瀬城・辰巻城) (町の史跡)
最寄地 和歌山県西牟婁郡上富田町市ノ瀬1976 2018.7.13
登城ルート(緑線は車道)
二の郭・主郭切岸
2重堀切
主郭・土塁
十三重塔・龍松城之記
折れの土塁
龍松山城跡(地図)
【遺構★★★★☆】
【感想】 上富田町市ノ瀬の標高121mの龍松山にあり、東西約40m南北約50mの楕円形の主郭がある。
主郭周囲に土塁がよく残り、2郭南西にも土塁が残っている。また2郭の北東側下を覗くと2重空堀が残っていた。
【案内】 国道311号線の入口に大きな案内看板が建てられ(地図)、表記番地右を通って車道が2郭まで通じている[マップコード184 176 795*60]。
少し登った道路左に城主の墓の案内があり、尾根の上に城主一族の石塔群が残っている。
主郭は広く、周囲に土塁が巡り、北側に十三重塔や「龍松城之記」の石碑が建てられている。その左は折れのある土塁となっている。
その下を取り巻くように2郭があり、南西側が広くなっている。2郭の下の東尾根には2重の堀切が残っている。
城の石垣は、明治二十二年(1889年)の大洪水で決壊した富田川堤防の復旧に使われたと伝えられている。
上富田町の史跡に指定されている。
【歴史】 勢州(三重県)一之瀬城の城代・山本忠行は櫟原(いちいはら)荘の地頭としてこの地に移り、天文年間(1532~55年)龍松山城を築いたと云われている。
山本忠行は紀南地方(富田川流域と田辺や日高郡の一部を含む)を支配し勢力を振るった。室町時代には湯川氏、玉置氏と共に奉公衆に属し活躍した。
城名は2代城主忠継が城を改修した際、二の丸に龍が這うような松の巨木に由来したと伝えられる。
天正十三年(1585年)豊臣秀吉の紀州攻めで杉若越後守や藤堂高虎に攻められたが、城主・山本主膳正康忠は固守して降らなかった。
しかし、翌十四年ついに和議に応じ、大和郡山城の羽柴秀長を訪れた帰路、紀和国境真土峠の藤堂高虎の館において謀殺された。