安右エ門城 (やすうえもんじょう)
最寄地 島根県邑智郡美郷町滝原160 2015.5.15 2018.5.9
安右エ門城 (やすうえもんじょう)
最寄地 島根県邑智郡美郷町滝原160 2015.5.15 2018.5.9
登城ルート(緑線は車道)
入口・墓地
滝原配水池
登ってすぐの尾根
東側のなだらかな尾根
主郭
丸屋城・青杉城方面を望む。
安右エ門城跡(地図)
【遺構★★☆☆☆ 比高210m】
【感想】 江の川が大きく蛇行する地点に突き出た、青杉城から続く標高294mの山頂に築かれている。
一帯に背丈を越す隈笹が密生し3段ほどの郭が足下にあったが、進むのも出来ないほどであった。青杉城同様、登城を薦められたものでは無い。
【案内】 国道375号線より、旧三江線「浜原駅」に向かう。その前の道を西に鉄橋を渡り左折、約1km南下した西光寺(表記番地)先を右折、200m余行った墓地横に駐車できる[マップコード430 462 395*27](地図)。
登り口から西に堀底道を行き「滝原配水池」の前を通って、300mほど行った2つ目の尾根先地点より右に直登する。
西に磁石を頼りに約110m直登すると尾根先端部に着き、その先はなだらかな尾根となっている。
城跡手前から隈笹が密生し、北西に登ってゆくと「アセビ群生地」の標柱のある安右エ門城である。周囲は隈笹だらけでその上から南に丸屋城・青杉城のある山が見える。
【歴史】 元弘三年(1333年)、後醍醐天皇が挙兵すると、当時の佐波氏当主佐波顕連は後醍醐天皇側に与した。建武の新政後、足利尊氏の反乱によって南北朝時代に突入し、顕連は防衛力の強化に迫られて青杉城を築城し、支城として安右エ門城、丸屋城を築いたとされる。
しかし、南朝:正平五年/北朝:観応元年(1350年)に、北朝側の名将高師泰が城を攻撃し、約1ヶ月の攻防戦の後に青杉城は落城。佐波顕連は自害したとも、討死したとも言われている。
その子、佐波実連は北朝に帰順し、佐波氏は存続した。佐波氏は戦国時代、尼子氏に従うも、尼子氏が滅亡すると毛利氏に従属した。
安土桃山時代末期に佐波氏は備後国東城の五品嶽城を領したため、青杉城は廃城になったとも、吉川氏の属城になったとも言われ、佐波氏の居城としての役目を終えた。