櫛崎城 (くしざきじょう) (串崎城・雄山城・長府城・長府陣屋)
所在地 山口県下関市長府外浦町1 2014.9.3
櫛崎城 (くしざきじょう) (串崎城・雄山城・長府城・長府陣屋)
所在地 山口県下関市長府外浦町1 2014.9.3
松崎口石垣・城址碑・由来碑
城址碑・由来碑
西面石垣
本丸・石垣
本丸・石垣
復元天守台
櫛崎城 本丸跡(地図)
【遺構★★★★☆】
【案内・感想】 国道9号線「外浦」交差点(横断歩道橋)より東に約100m行くと関見台公園駐車場がある[マップコード16 869 344*72]。
駐車場東の細い道の東に石垣が残り突き当り角(松崎口)に城址碑と由来説明碑がある(地図)。
駐車場より東に登ると、関見台公園となっている。石垣が残り、くじら館の先に天守台石垣が復元されている。天守台からは関門海峡の絶景が望める。
当時の城郭図巻によると城域は北側の豊功神社に至るまでであり、松崎口・浜之坂口・三軒屋口に櫓があった。松崎口の大手門二重櫓跡に高石垣が残っている。
居館(政庁)跡地は、県立豊浦高等学校(下関市長府宮崎町1−1)の敷地となっている。
【歴史】 天慶三年(940年)に藤原純友の配下稲村平六景家がこの地に拠ったとも伝えられているが、詳細は不明である。
戦国時代に大内氏の重臣内藤隆春が築城し、「温故私記」によると永禄十二年(1569年)九月に、内藤氏家臣の勝間田盛長を城番として置いた。
慶長五年(1600年)の関ヶ原の戦いの後、毛利氏は防長二州に減封され、山口城に居を構えていた毛利秀元が支藩の長府藩の居城として改修し雄山城と称した。
しかし、慶長二十年(1615年)に江戸幕府の定めた一国一城令によって取り壊され、隣接地に居館(現豊浦高校)を置いた。
幕末の文久三年(1863年)二月、外国船との戦いに備えて築いた勝山御殿に移るまでの約250年間、長府藩の政庁であり、藩主の居館であった。
幕末には攘夷のために櫛崎城跡も砲台とされ、東側から海峡に入って来る外国船を一番早く発見する役割を果した。
真鍮砲三門と木砲四門が配備されていたが、四国艦隊下関砲撃事件の休戦協定が結ばれた翌日の元治元年(1864年)八月九日、戦利品として持ち去られた。