布勢天神山城 (ふせてんじんやまじょう) (布施城・布施天神山城・天神山城) (県の史跡)
最寄地 鳥取県鳥取市湖山町南3丁目848 2018.8.12
布勢天神山城 (ふせてんじんやまじょう) (布施城・布施天神山城・天神山城) (県の史跡)
最寄地 鳥取県鳥取市湖山町南3丁目848 2018.8.12
登城ルート
高校横より登る
北側曲輪
井戸
横堀
南側曲輪
布勢天神山城跡(地図)
【遺構★★★☆☆ 比高15m】
【感想】 湖山池東岸の標高18mの天神山に築かれており、南北に広い曲輪が残っている。他に井戸、横堀、帯郭や、櫓台の崩れた石積みが見られる。
【案内】 県立鳥取緑風高等学校(表記番地)の西の山にあり、西側を通る県道264号線横に入口があり、そこに説明板が建てられている[マップコード125 606 762*25](地図)。
高校敷地と山の間に歩道が設けられ、標識が2ヶ所建てられている。
昭和五十一年(1976年)8月3日、鳥取県の史跡に指定された。
【歴史】 『因幡民談記』によると、文正元年(1466年)因幡国第5代守護・山名勝豊により築城されたといわれるが、勝豊は長禄三年(1459年)に没しており、この年代には疑義がもたれている。
確実な史料による初見は永正十年(1513年)である。一説に『応仁記』にみえる布施左衛門佐は山名豊氏を指すのではないか考えられており、豊氏の築城との指摘もある。
第13代守護・山名誠通はこの城にあって、同族である隣国但馬守護の山名祐豊と対立し、敗死した。
誠豊の死後、守護職は豊定、棟豊と但馬山名家から送り込まれた人物が継承した。棟豊が若くして死去した後に家督を継いだ守護・山名豊数の時、重臣・武田高信が鳥取城を本拠として離反する。
永禄六年(1563年)末に山名豊数は武田高信の猛攻を受けて布勢天神山城を退去し、鹿野城に退いた。
天正元年(1573年)尼子氏の援助を受けた豊数の弟・山名豊国が武田高信を鳥取城から追い、守護所を鳥取城に移転させ、天神山城は廃城になったとされる。