角牟礼城 (つのむれじょう) (国の史跡)
最寄地 大分県玖珠郡玖珠町太田362 2014.5.13
角牟礼城 (つのむれじょう) (国の史跡)
最寄地 大分県玖珠郡玖珠町太田362 2014.5.13
登城ルート(緑線は車道)
三の丸石垣・駐車場
搦手門脇石垣
二の丸跡
大手門跡・礎石
本丸跡・角埋山頂上
本丸東側石垣
角牟礼城 本丸跡(地図)
【遺構★★★★☆ 比高70m】
【案内・感想】 国道387号線より西に1km余行った集合住宅(表記番地)北に城跡への林道入口がある[マップコード269 483 160*43]。そこより約1.4km登ると三の丸の駐車場に着く(地図)。
三の丸の南面以外の三方は急崖となっており、登山道を少し登ると搦手門跡があり穴太(あのう)積みの石垣が良く残る。
その上が井戸曲輪であり湧水井戸がある。二の丸の南にも石垣が残り、ニの丸跡には建物礎石が点在する。
東に登ってゆくと大手門跡の石垣が残り、さらに登り階段状虎口を経て標高576mの角埋山(つのむれさん)頂上の本丸に着く。駐車場より比高70mの本丸の東に隅櫓跡や土塁が残り、その下に石垣が残っている。
平成十七年(2005年)3月2日、国の史跡に指定された。
【歴史】 玖珠盆地は平安時代から玖珠郡衆によって支配されていたが、角牟礼城は、弘安年間(1278~88年)に玖珠郡衆の森朝通により豊後国から豊前国に抜ける交通の要衝に位置し、天然の要害である角埋山に築かれたと伝えられる。
ただし、史料においてその存在が確認できるのは、文明七年(1475年)の志賀親家文書が最初である。
その後、天文二年(1533年)や翌三年には「角牟礼新堀之事」や「角牟礼勤番在城」と出てくるように、豊前国からの侵攻を防ぐ豊後国の境目の城として玖珠郡衆によって守られていた。
戦国時代には、豊前の大内氏と豊後の大友氏との争いを背景により堅固に補強された。
天正十四年(1586年)の島津義弘による豊後侵攻の折には、玖珠郡衆が籠城したが、島津軍の攻撃にも落城することはなく、難攻不落の城として名を高めた。
文禄二年(1593年)豊富秀吉が文禄の役で失態を犯した大友義統を改易し、毛利高政を入部させた。
文禄三年(1594年)から慶長五年(1600年)にかけて、玖珠・日田郡領主となった毛利高政が玖珠の拠点として角牟礼城を整備した。現在の石垣等はこの時期のものと考えられる。
しかし、関ヶ原の戦いの後、毛利高政は佐伯城主に転封され、慶長六年(1601年)に来島城より伊予国来島長親(後改名し康親)が入封した。
森藩が立藩されるが、来島氏が1万4千石と城主の格式を有さなかったため、角牟礼城は廃城放置され、山麓に陣屋(現在の三島公園)が置かれた。