亀丘城 (かめおかじょう) (亀尾城) (県の史跡)
所在地 長崎県壱岐市郷ノ浦町本村触684‐1 2014.5.4
亀丘城 (かめおかじょう) (亀尾城) (県の史跡)
所在地 長崎県壱岐市郷ノ浦町本村触684‐1 2014.5.4
登城ルート(緑線は車道)
本丸入口・城跡碑
説明板・城跡碑
登り道(切通し)
本丸の亀城公園・土塁
本丸西側石垣
亀丘城 本丸跡(地図)
【遺構★★★☆☆】
【案内・感想】 二の丸にある「壱岐市ケーブルテレビ放送センター」(表記番地)西の駐車場が利用できる[マップコード409 278 498*60]。
北の高台が本丸跡であり、北西側に本丸石垣が残っている。西に公園、市立郷ノ浦幼稚園がある。
本丸入口には日蓮上人像と「亀岡城跡」碑、城跡看板がある。登ってゆくと、周囲に土塁が残り、顕彰碑の立つ本丸の亀城公園に着く。
昭和五十二年(1977年)5月4日、長崎県の史跡に指定された。
【歴史】 『長崎県・壱岐市教育委員会』の由来看板によると、鎌倉後期の永仁二年(1294年)肥前国上松浦波多郷(現、唐津市北波多)の岸岳城主・波多宗無(しゅうむ)により築城されたと伝わる。
波多氏は中世松浦郡地方に割拠した武士団・松浦党の一員である。
松浦党の祖は延久元年(1069年)に摂津国渡辺荘から松浦郡宇野の御厨検校ならびに検非違使に補任されて下向土着した源久で、久は松浦氏を名乗り一族に松浦の各地を分封して、勢力の拡張を図った。
一方波多氏の祖は源持(たもつ)で持は久の次男で、波多郷を与えられて波多氏を名乗った。
以後、文禄二年(1592年)15代(16代とも)波多三河守親に至り断絶した。
宗無(法名)については、三代の波多勇か四代の明と思われる。波多氏は元寇直後、壱岐に進出して支配の根拠地とすべく、当地の武生水村一帯を領したと思われる。
波多氏が壱岐全島を掌中にしたのは文明四年(1472年)十一月で、12代下野守波多泰は、松浦党の志佐・佐志・呼子・鴨打(かもち)・塩津留の五氏が分治する壱岐を急襲して領有した。そして亀丘城を修築して入り、一族を留めて統治した。
13代は下野守興(こう)、14代は壱岐守盛(さかり)であったが、盛は嗣子のないまま天文十一年(1542年)に没した。
この後、後継者を巡る内紛が生じ、永禄七年(1564年)には重臣日高甲斐守喜(このむ)の謀反に発展し、波多氏は日高氏によって岸岳城(唐津市)を追われることとなったが、龍蔵寺・有馬両氏の助勢を得て奪回し、敗れた日高氏は壱岐に逃れて亀丘城を奪い、壱岐を横領した。
永禄十一年(1568年)日高氏は龍蔵寺氏・波多氏に対抗するため平戸の松浦氏と誼を結ぶが、元亀二年(1571年)には松浦氏に従属した。
以後壱岐は松浦氏の領地となり松浦藩は明治までの約三百年間、亀丘城に城代と郡代を派遣して統治した。
文久元年(1861年)の『壹岐名勝図誌』には当城の規模を「本丸、東西十五間、南北十二間、二の丸よりの高さ凡そ五間程。二の丸(城跡碑の場所)東西三十六間、南北十七間余。三の丸、東西五十六間、南北二十二間或いは十四間」と記されている。
城名は二の丸に在った亀石と呼ぶ名石にちなんで名付けたと伝える。