桶平城 (おけひらじょう) (桶平塁・田原陣)
最寄地 宮崎県えびの市原田1846 2019.3.5
桶平城 (おけひらじょう) (桶平塁・田原陣)
最寄地 宮崎県えびの市原田1846 2019.3.5
登城ルート
市道・モニュメント・民家前を右へ
この民家横を進む
土橋先の虎口・土塁
主郭・土塁(南側)
主郭・土塁(南西側)
桶平城跡(地図)
【遺構★★★☆☆】
【感想】 えびの市原田の民家のある台地と谷で隔てた独立丘陵に築かれた陣城である。谷は堀切の役目を担い、土橋が架かっている。
あまり期待しないで訪れたが、中々どうして城跡の虎口や堀道があり、畑として利用されている主郭の西から南側に土塁が残っている。南東と北東の尾根は一段下がって腰郭のようになっている。
【案内】 市道に「ひがんばなの里」のモニュメントがあり、その手前路肩に駐車する[マップコード195 089 019*78]。
そこより南へ少し行って右折し、写真の民家(表記番地)横より西へ歩く。100m程道なりに下ると、谷に架かる土橋があり、その先に堀道がある。
そこを抜けると、視界が開け広い畑となった城跡がある。西から南にかけて土塁が残っている。
【歴史】 永禄十一年(1568年)、日向国伊東氏の伊東祐安が、相良氏と連携して島津義弘の飯野城を攻めようと田原山に布陣したが、義弘に察知され睨み合いとなった。伊東祐安はやむなく田原山に桶平城を築いた。
祐安は桶平城に佐土原遠江守を置いて守らせていたが、同年十一月に島津家臣の遠矢良賢と黒木実利がウズラ狩りの小勢を装い、城兵を挑発、これに釣られ出陣した城兵は伏兵により大敗を喫した。
翌、永禄十二年(1569年)、伊東氏の家督を継いでいた伊東義益が急死したこともあり、伊東勢は桶平城を焼いて撤退した。