丸亀城 (まるがめじょう) (亀山城・蓬莱城) (国の史跡・日本100名城78)
所在地 香川県丸亀市一番丁 2011.5.13 2014.5.16 2017.12.13 2020.2.4
丸亀城 (まるがめじょう) (亀山城・蓬莱城) (国の史跡・日本100名城78)
所在地 香川県丸亀市一番丁 2011.5.13 2014.5.16 2017.12.13 2020.2.4
北西側内堀
大手二の門・一の門・堀
一の門
三の丸・二の丸石垣
二の丸・本丸石垣
現存天守
丸亀城 本丸跡(地図)
【遺構★★★★★】
【案内・感想】 現存十二天守の一つ。県道21号線大手北の市民広場の駐車場が利用できる[マップコード77 741 121*43]。目の前の内堀は良好に全周残り、中は「亀山公園」となっている。
三重天守のほかに大手一の門・大手二の門・御殿表門・番所・長屋が現存しており、そのうち昭和二十五年、天守の解体修理が行われ国の重要文化財に指定され、昭和三十二年、大手一の門・大手二の門が国の重要文化財に指定されている。
大手門を入ると高石垣が壮観である。西側に御殿表門、番所長屋があり丸亀市立資料館、城内グランドがある。天守の最上階からは、北北東に瀬戸大橋など瀬戸内の絶景や東南東約4㎞に讃岐富士(飯野山・標高421.9m)を眺望できる。
昭和十八年(1943)天守が国宝保存法に基づき旧国宝に指定された。昭和二十三年(1948年)外濠の埋め立てが始まり、昭和二十八年(1953)3月31日、国の史跡に指定された。
平成十八年(2006年)4月6日、日本100名城(78番)に選定される。
【歴史】 室町時代初期、管領・細川頼之の重臣の奈良元安が亀山に砦を築いた。
天正十五年(1587年)生駒親正が讃岐国17万6千石の大名に封ぜられ引田城に入城した。聖通寺城に移るが、不便を感じ天正十八年(1590年)高松城が完成した。
慶長二年(1597年)豊臣政権の時代、生駒親正が高松城を本城とし、亀山に支城を築いた。
慶長七年(1602年)六年の歳月を費やし、現在みられる城郭が完成した。慶長二十年(1615年)一国一城令により破却の危機にさらされるが、時の藩主・生駒正俊は要所要所を樹木で覆い隠し立ち入りを厳しく制限し、城を破却から守った。
寛永十七年(1640年)生駒氏のお家騒動(生駒騒動)のため出羽国矢島城1万石(現・秋田県由利本荘市)に転封となった。
翌年、山崎家治が肥後国富岡城(現・熊本県天草郡苓北町)より5万石で入封し、丸亀藩が成立した。
寛永二十年(1643年)城の改修に着手。幕府が家治に、瀬戸内の島々にいたキリシタンの蜂起に備える為の城をつくらせたのではないかと云われ、幕府は丸亀藩に銀三百貫を与え、参勤交代を免除し、突貫工事を行わせた。
万治元年(1658年)山崎氏は3代で無嗣断絶し改易となった。
代わって播磨国龍野城より京極高和が6万石で入封。以後、明治維新まで京極氏の居城となった。
万治三年(1660年)高和は城の裏口にある海側の搦め手門を大手門に変更した。その大手門から見上げる石垣の端に、現在の三重三階の御三階櫓が完成した。
延宝元年(1673年)32年の歳月を費やし大改修が完了した。現存する石垣の大半はこの改修のものである。
明治二年(1869年)三の丸の戌亥櫓が火災により焼失した。明治六年(1873年)名東県の広島鎮台第二分営が設置された。
明治十年(1877年)現存の建物以外の櫓・城壁等の解体が行われた。