龍王城 (りゅうおうじょう) (神楽城) (市の史跡)
最寄地 大分県宇佐市安心院町龍王779 2015.5.12
龍王城 (りゅうおうじょう) (神楽城) (市の史跡)
最寄地 大分県宇佐市安心院町龍王779 2015.5.12
登城ルート(緑線は車道)
海神社
主郭・石垣・中継放送所
神楽城趾碑
主郭石垣
2郭
2郭西堀切
西側登り口・地蔵
龍王城 主郭跡(地図)
【遺構★★★☆☆ 比高90m】
【案内・感想】 県道50号線のカーブより南へ、表記番地の左を通って、標高315.3m龍王山の5合目の海神社まで車で行ける[マップコード145 027 108*04](地図 )。海神社へ登り、石段の左に城跡への登り口がある。
神社よりの比高約90mの山頂に、草茫々だが、虎口石段が残り、主郭にはテレビ放送中継所が建てられ、草に埋もれ石垣、「神楽城趾」の石碑がある。
西側の虎口から下ると主郭下に石垣が残る。その下段に2郭があり、さらに下ると堀切がある。
堀切を登って再び下ると、途中で道は消えるが、西側に下って行くと「仙の岩道路記念塔」や地蔵が建てられた車道終点に出る(地図)。
城跡は宇佐市の史跡に指定されている。
【歴史】 正安年間(1299~1302年)に宇佐大宮司安心院公泰により築かれ、神楽城と呼ばれた。
建武年間(1334~36年)、豊前守護の宇都宮冬綱の属城となり、その子親綱が居城し、龍王城と名付けた。
天文年間(1532~55年)頃には周防国大内氏に属していたが、弘治二年(1556年)豊後国の大友義鎮によって攻められ降伏、以後大友氏の豊前攻略の拠点となった。このとき安心院公正は大友氏から「麟」の字を賜わり麟生と改めた。
天正六年(1578年)大友氏が 日向遠征で島津氏に耳川の戦いで大敗し、大友氏から離反する豪族が増えた。
天正十年(1582年)、安心院中務入道麟生もこの城に籠城し大友氏に叛くと、妙見岳城主田原紹忍によって麟生は謀殺され安心院氏は滅亡した。
天正十四年(1586年)島津氏が豊後に侵攻すると、大友宗麟の長子義統(吉統・よしむね)は龍王城に逃げ、豊臣秀吉に助けを求めた。
九州を平定した秀吉は豊前6郡を黒田孝高(よしたか・官兵衛)に与えたが、龍王城は大友氏の属城として安堵された。しかし、文禄二年(1593年)に大友氏が改易され、廃城となった。
慶長五年(1600年)関ヶ原の戦いの後、細川 忠興が中津城に入り、慶長八年(1603年)に忠興の弟 幸隆が1万石を与えられ、龍王城に入り、改修した。
幸隆は慶長十二年(1607年)に亡くなり、以後、 長岡伊勢守好重・長岡右馬重政父子が城代となった。
元和元年(1615年)の一国一城令で龍王城は廃城となった。
寛永九年(1632年)に小笠原氏の一族 松平 重直が三田城より3万7千石で入部し、龍王城北側山麓に陣屋を構えた。
寛永十六年(1639年)に高田城に移った。