松山城 (まつやまじょう) (金亀城・勝山城) (国の史跡・日本100名城81)(日本さくら名所100選)
所在地 愛媛県松山市丸之内1 2012.9.9 2020.2.9
松山城 (まつやまじょう) (金亀城・勝山城) (国の史跡・日本100名城81)(日本さくら名所100選)
所在地 愛媛県松山市丸之内1 2012.9.9 2020.2.9
南側濠
野原櫓・乾櫓・高石垣
馬場櫓・連立天守・南隅櫓
大・小天守・南隅櫓
高石垣・門
天守内部
松山城 本丸跡(地図)
【遺構★★★★★】
【案内・感想】 現存十二天守の一つで、日本三大平山城(姫路城、松山城、津山城)のひとつである。徒歩の場合は愛媛県庁前の道路の先に登り口(地図)がある。標高131m(比高80m)の城山にロープウェイが運行(往復500円)されている(松山城駐車場:松山市喜与町1丁目6-12:2時間410円追加30分100円)[マップコード53 318 810*15] 。
頂上駅より戸無門、隠門、太鼓門を通り公園になっている本丸広場に出る。桜が多く植えられ、当時の土木技術としては特筆される深さ44mにおよぶ井戸が保存されている。
本壇石垣の上に、姫路城と同じく、三重三階大天守と小天守・南隅櫓・北隅櫓を渡り櫓(廊下)で結んだ連立式である(拝観料500円)。西に日本で現存数の少ない望楼型二重櫓の野原櫓(騎馬櫓)や乾櫓がある。又城山の南西山麓に県庁の北に二の丸史跡庭園があり、その南と西に堀がある。
明治十九年(1886年)より昭和二十年(1945年)にかけて、二之丸と三之丸は陸軍省の管轄となり、松山歩兵第二十二連隊の駐屯地が三之丸(堀之内)にあった。
昭和十年(1935年)5月13日、天守、櫓6棟、門7棟、塀7棟が国の重要文化財に指定された。
昭和27年(1952年)3月29日、二之丸と三之丸を含む松山城山公園が国の史跡に指定された。
平成18年(2006年)4月6日、日本100名城(81番)に選定された。
【歴史】 慶長七年(1602年)、伊予国(松前町)正木城主十万石の大名であった加藤嘉明が、関ヶ原の戦いでの戦功により20万石に加増され、足立重信を普請奉行に任じ、麓に二之丸(二之丸史跡庭園)と三之丸(堀之内)を有する平山城の築城に着手した。
慶長八年(1603年)十月、嘉明が、この地を「松山」と改称した。元和五年(1619年)、武家諸法度違反による福島正則の改易により、幕府の命で、嘉明が広島城受領のため赴いた。
寛永四年(1627年)、嘉明は、松山城の完成前に会津藩若松城へ転封となり、蒲生忠知(蒲生氏郷の孫)が、24万石の松山藩主になった。
寛永十一年(1634年)八月、忠知が参勤交代の途中で死去し、蒲生家が断絶した。
そのため大洲藩主、加藤泰興が松山城を預かる(松山城在番)。城在番中に、幕府に替地の申し出がなされた。
寛永十二年(1635年)七月に松平定行が15万石の藩主となり、以降、四国の親藩として明治維新まで235年間続く。
寛永十九年(1642年)、創建当初五重であったという天守を、定行が三重櫓に改築した。
元禄十五年(1702年)二月、松平定直の時、幕府から江戸松山藩邸の預かりとなっていた赤穂浪士十名が切腹。
天明四年(1784年)、天守を含む建物が、落雷により焼失した。文政十一年(1828年)、藩主・松平定通が文武の振興のため、藩学の拠点として明教館を創設した。
安政元年(1854年)二月八日、時の藩主・松平勝膳が天守本壇を落成させ、また勝海舟の設計で安政六年(1859年)五月、武蔵国神奈川(現在の横浜市神奈川区)に砲台を築造した。
元治元年(1864年)六月、幕府の命を受け、禁門の変に出陣し、薩摩藩・桑名藩とともに長州藩と戦い、御所南門などの警備を行った。
慶応二年(1866年)六月、幕府の命により長州征伐に出陣し、屋代島を占領するも、速やかに兵を津和地島および興居島に引き揚げた。翌年、藩主・松平定昭が幕府老中となった(大政奉還により辞任)。
明治元年(1868年)、土佐藩が松山城を受領・保護(藩主は常信寺にて謹慎したが、翌年には赦免される)。
明治三年(1870年)、松山城三之丸が焼失、二年後に二之丸も焼失した。明治四年(1871年)、廃藩置県により松山藩から松山県となり、明治六年の廃城令による破却に本丸は遭わなかった。
昭和八年(1933年)の松山城放火事件や戦時中の空襲により大天守を除く幾つかの建造物が火災で焼失したが、戦後の昭和四十年代から忠実に復元され現在に至る。
昭和十年(1935年)、天守など35棟の建造物が国宝保存法に基づく国宝に指定されている。