大村城 (おおむらじょう) (永福城)
最寄地 鹿児島県薩摩川内市祁答院町下手974 2019.3.5
大村城 (おおむらじょう) (永福城)
最寄地 鹿児島県薩摩川内市祁答院町下手974 2019.3.5
登城ルート
大軣小学校西の入口
通路の空堀
2の丸東の堀切
2の丸
本丸西の堀切
本丸
本丸背後の堀切
大村城 本丸跡(地図)
【遺構★★★☆☆ 比高50m】
【感想】 薩摩川内市立大軣(だいこう)小学校背後の標高121mの東西に伸びた丘陵に築かれている。
10あまりの郭から成り、その間には深い堀切があり切岸は急で、おまけに倒竹に足を取られ、移動がままならなかった。
【案内】 県道51号線に面した「祁答院公民館」(表記番地)の駐車場が利用出来[マップコード270 134 196*17]、「祁答院役場前」 交差点角に説明板、縄張り図が建てられている。
東側に「市立大軣(だいこう)小学校」があり、その西側の道路を北に行くと入口があり、深い空堀を登ると、配水池のある2の丸東の堀切に着く。東に鬱蒼とした竹林があり、堀切で隔てられた3つの郭があり、4つ目に本丸がある。
本丸は東側に櫓台があり、細尾根の先に深い堀切がある。
【歴史】 建久元年(1190年)頃、大前 (おおさき) 氏の一族・滝聞(たきぎ)道房が滝聞城より移って居城とした。
康永年間(1342~45年)滝聞氏の流れを汲む大村太郎が渋谷祁答院氏族吉岡将重に敗れ滝聞城に退去した。
正平十二年(1357年)吉岡将重が島津氏に敗れ、氏久の家臣・平田親宗が一時居城とした。
天授元年(1375年)以前、祁答院(けどういん)重茂の子・大村重義、その子・重続が居城した。
文明十七年(1485年)大村諸重の子・重知の時、島津忠廉(豊州家)が当城を攻めたが、攻めきれず軍を引いた。
その後、祁答院氏が統括し、祁答院良重が新城・松尾城を築いた後、古城と呼ぶ。
元和元年(1615年)一国一城令で廃城となった。