益富城 (ますとみじょう) (大隈城)
最寄地 福岡県嘉麻市中益415−2 2014.5.13
益富城 (ますとみじょう) (大隈城)
最寄地 福岡県嘉麻市中益415−2 2014.5.13
登城ルート
北側の畝状竪堀
空堀
二の丸跡
本丸跡
本丸櫓跡
善照寺の移築大手門
益富城 本丸跡(地図)
【遺構★★★★☆ 比高30m】
【案内・感想】 国道211号線を県道440号線との交差点東にある「スーパーおおさと」(表記番地)を過ぎ南に約400m行き、東に左折800mほど北東に行くと志祇神社の前となり、さらに北に300mほど行くと益富城跡の下に着く[マップコード 96 150 202*08 ](地図)。
水の手曲輪や曲輪の南を登ってゆくと空堀や畝状竪堀を過ぎ、搦め手門跡の二の丸桝形虎口に至り、東に櫓跡がある。
西に行くと北に横矢や櫓跡があり、南に倉庫風の建物が建てられている。その西が本丸跡となり北に石塁や建物跡礎石が残る。
更に西に本丸桝形虎口・櫓跡があり、南に旗立石や白米流しがある。虎口の西に展望台が建てられている。北側に十以上の曲輪がある。
善照寺(嘉麻市上西郷590)の本堂左に大手門が移築されている[マップコード55 477 800*83]。
【歴史】 永享年間(1429~41年)初め、室町幕府六代将軍足利義教の九州征伐(筑前の大友持直追討)の際に大内盛見(もりはる)が築城したといわれている。
その後は日田街道と長崎街道を結ぶ交通の要衝である大隈に築城された当城は争奪戦の的となり、永禄年間(1558~70年)には毛利元就が領有し、城番に杉七郎忠重を置いた。
戦国時代末期には、古処山城を本拠とする秋月氏の支城の一つとなった。
安土桃山時代、天正十四年(1586年)~ 天正十五年(1587年)の豊臣秀吉による九州征伐で秋月種実が敗れた後は、早川主馬頭長政が城番となったが、慶長五年(1600年)の関ヶ原の戦いで早川長政は西軍についたため、領地を召し上げられ浪人生活となった。
その後は関ヶ原の戦いの功績により筑前国一国を与えられた黒田氏が筑前六端城(ちくぜんろくはじろ)の一つとして位置づけ、家臣・後藤又兵衛(基次)を居城させた。
慶長十一年(1606年)に基次が出奔した後、六端城の一つであった筑前国鷹取城より母里太兵衛が移された。
慶長二十年(1615年)に発布された一国一城令により、他の六端城とともに廃城とされた。
早川長政、後藤又兵衛は元和元年(1615年)の大阪夏の陣で豊臣方に参陣し、又兵衛は討死し、長政は消息不明となった。